○箱庭をいきいき夕べの風の過ぎ 梅田ひろし
■海紅評=「いきいき」を具象化したい。箱庭の細部(水車・橋・家)を描きたい。 |
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△箱庭や黒竹さらさら文を書く 谷 美雪
■海紅評=「箱庭の黒竹が美しい」ことはわかる。「文を書く」は人が実際に手紙を書いているとも、黒竹の形容ともとれる。そのあいまいさを解消したいネ。 |
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◎箱庭の空が故郷の空になる 酢豚
■海紅評=しつらえてみると、箱庭はついつい郷里に似てしまうのだ。それを言わず、「空」を言うところに余情深いものあり。学ぶべし。故郷は遠くにありて…。 |
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△箱庭にしのぶ京都の龍安寺 山茶花
■海紅評=この句の平易と素朴を評価する。ただし「しのぶ」も「京都の」もいらない。「箱庭」と「龍安寺」以外は捨てて、例えば「箱庭や」と切って、「龍安寺に思い出があります」というようなことを言えばよい。 |
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○慣れて見し箱庭の富士天下一 ムーミン
■海紅評=上五「慣れて見し」より「見えて来し」の方が自然で自発的な感情が伝わる。 |
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◎箱庭の駅舎も人も昭和かな ひぐらし
■海紅評=箱庭の概念がそもそもPast memoriesなのかもしれない。「駅舎も人も」が具体的でよい。それを「昭和」で承けたところがさらによい。 |
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◎箱庭を据ゑて女将の故郷とか 堀口希望
■海紅評=飄逸。目をうるませながら、こんなところで呑みたいなあ。 |
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○箱庭の山河は遥か子の育ち 月子
■海紅評=「箱庭の山河は遥か」だけで完成している。ここで切りたいネ。子どもが成長してしまったことを言うと、全部わかってしまっちゃうからネ。 |
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△箱庭に灯り召されよ姉様人形 こま女
■海紅評=「召されよ」はいらないね。箱庭が灯り、姉様人形が灯ったとだけ言えばよい。あとは読者がわかってくれるネ。 |
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○箱庭に夢をつむぎし父の生 むらさき
■海紅評=こうした個人的な事情は、一般化しなければ人の心に届かない。しかし、ここに隠れている実情、あるいは実情にみえるものは歌の根源として大切なものである。 |
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○箱庭にガリバー気分で富士を入れ 礒部和子
■海紅評=「箱庭にガリバー気分」が斬新でよい。でも「入れ」が難解。座五「富士を盛る」「富士築く」ではどうだろう。 |
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○手鞠花サイドミラーにとんとんと 千年
■海紅評=手毬花も紫陽花の一種なのだろうか。走行車にあたる様子を「とんとん」と言ったか。とすれば、事実の報告にとどまる。 |
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○赴任地へ夫もどる日や濃紫陽花 西野由美
■海紅評=姿が整い、コアジサイも情を添えているネ。 |
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○玉あぢさゐ弾めば雫こぼれけり 谷地元瑛子
■海紅評=「玉紫陽花」だから「弾む」がよく似合う。完成しているけれど、雫の句ではなく紫陽花の句であることを尊重して、「弾んで雫こぼしをり」と主体的に描く道もあるネ。最終的には作者が選ぶことだけれど。 |
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△紫陽花のつひの一花や朝ぼらけ 柴田 憲
■海紅評=終の一花というのが重たくて辛い。「朝ぼらけ」が取って付けた印象をうけるので再考したいネ。 |
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○紫陽花の毬大揺れの線路土手 若林直久
■海紅評=句意はよくわかる。電車通過で立派な玉の紫陽花が美しく揺れているのだネ。それなら下五をそのまま「紫陽花の大きく揺るる電車過ぐ」などとしてはどうか。 |
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○明け方の強雨に紫陽花揺れ止まず 三嶋泰
■海紅評=強雨に紫陽花が大揺れしているのだネ。でもなぜ「明け方」なのだろう。その答えがないとしたら、「明け方」を捨てて、もう一度何に感動したかを考えるといいネ。 |
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◎境内のしづけさにあり白紫陽花 ちちろ
■海紅評=気持ちよく読める佳句。静けさはどこにでも生まれる可能性はある。でも境内はそれになかなかふさわしい。紫陽花がいかにもありそうな場所でもある。「白」と指定したところも境内や静けさに似合う。 |
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△紫陽花や木霊のやうな便り来ぬ 松江
■海紅評=紫陽花が咲いていることと、手紙が届いたことがわかる。でも「木霊のやうな」がわからない。思い入れがあるのだろうけれど、それが逆効果になっている。 |
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△土地柄に会はせ色変へあぢさゐ花 天野喜代子
■海紅評=紫陽花は土壌によって色合いが異なると聞いたことがある。この句がそれを言っているのだとしたらあたりまえのことに終わり、感動の焦点があいまいになってしまう。寓意が感じられないこともないが、ほのめかしはできるだけ避けて、目や耳がつかまえた感動をそのまま言葉に置き換えたいネ。 |