【元】長谷寺の一際目を射る黄の牡丹 天野喜代子 【参】黄牡丹や長谷寺を出て室生寺へ
【○】嫁ぐ娘のブーケにしたい牡丹咲く 礒部和子 【○】嫁ぐ娘のブーケにしたき牡丹哉 ■海紅評=内容は率直で、口語調としては完成しています。文語仕立てを望むなら「にしたい」「咲く」の部分が変わります。最終的には作者の好み、こだわりです。参考句は安易ながら、文語調の例です。
【元】雨の夜はまひまひ遙かな湖憶ふ 西野由美 【参】雨の夜のまひまひ湖を夢にみる ■海紅評=雨の夜の蝸牛は遥かな遠くの湖を思い出すという意であろうか。「遥かな湖」が漠然としている。特に十七音という限られた定型詩においては、「遥かな」という形容は捨てた方がよい。参考例は、夜は眠る時間なので「夢にみる」と直してみたもの。この解説から何かをつかんでいただければ幸い。
【元】白牡丹スカイツリーと金環食 谷 美雪 【参】白牡丹スカイツリーの見える窓 ■海紅評=白牡丹+スカイツリー、白牡丹+金環食、感動はこの二つのどちらかにしたい。白牡丹+スカイツリー+金環食では、作者の目がどこに定まっているのか分からず、読者は混乱する。参考句は、白牡丹を近景に、スカイツリーを遠景においたもの。「の見える窓」というように、白牡丹とスカイツリーの仲介する表現を学びたい。
【○】哲学の径に遊ぶ蝸牛 ひぐらし ■海紅評=京都に哲学の道と呼ばれるところがある。西田幾多郎が思索にふけった道だ。この句の「哲学の径」がそこをさすかどうかは厳密にはどうでもよい。「哲学の径」すなわち思索の道というのを第一義としてよい。「径」はコミチと読めるが、いまは「小径」「小道」の字を用いる方が親切。哲学の道を思索しながら歩いていると、蝸牛が遊んでいたという意。蝸牛はゆっくり、のんびり歩くことで知られる。その様子は哲学とか思索とかいう世界に似合うのだ。だから句の表現は完成しているし、余情もある。しかし、今後のために言えば、「に遊ぶ」で通俗的になっている。「遊ぶ」姿を凝視し、描写できればさらに句の格は上がるように思う。
【△】現代へアンチテーゼか蝸牛 むらさき ■海紅評=蝸牛が現代へのアンチテーゼになっているという句。ゆったりとした蝸牛の歩みに学ぶべきものが多いという主張であろうか。表現完成という点では「アンチテーゼや」と詠嘆にしたほうがよい。ただし、標語的な内容に終わっている点は再考の余地少なからず。
【○】大牡丹土さえ甘く匂いけり ムーミン ■海紅評=花王とされる牡丹の奥深い香りは、その土までも匂わせているという意。「土さえ甘く」という点は作者の発見であり、手柄である。なお、「けり」という古語を有効に使っている以上、「土さえ」は「土さへ」、「匂い」は「匂ひ」と古典的な仮名遣いにしたい。