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詩歌に癒されて生きる

◆ 第2回 連歌を覚えていますか 谷地快一

 「レンガ」を覚えているだろうか。和歌を一人で詠み上げるのでなく、上句と下句を自分以外の人と交互に唱和して、鎖のようにつないでゆくあの連歌(俳諧)のことだ。世界に類のないこの詩歌を大学の講義ではじめて知って、ボクは深く感動したが、プロレタリア詩を書きながら、中野重治や小熊秀雄をボクに教えてくれた君は、あまり興味を示さなかった。すでに正岡子規が、近代化に逆行する文芸として否定した世界に、いまさら現(うつつ)を抜かすわけにいかないというのが君の主張だったが、ヘルメットと手ぬぐいで顔を覆い、鉄パイプを持って学生集会に集うという、ゆとりを欠いた時代のことゆえ、当時としてはその主張も無理からぬことだった。
  だが、子規の「連俳は文学に非ず」(「芭蕉雑談」)という言葉は、連歌(俳諧)という付合(つけあい)が作り出す享受・共感の場を否定したわけでなく、形骸化した儀式としての文芸を排除しようとしたものではなかったか。『連歌の心と会席』(風間書房)は、そんな思いを新たにしてくれる好著だ。
  形骸化した儀式と書いたが、それは連歌俳諧という文芸が享受者をふやす近世以後のことで、本書が取り上げる中世期の連歌は、晴(はれ)の文化として儀式自体に命があった。すなわち、連歌の座とは奉納・奉灯・法楽・祈願・追善・立机(りつき)という文化そのものであった。本書から一例を引く。
     時は今天(あめ)が下しる五月かな     光秀
     水上増さる庭の松山              西坊
     花落つる池の流れを堰きとめて       紹巴       (「愛宕百韻」下略)
  天正十年(1582)五月二十八日、明智光秀は京都上嵯峨北部の愛宕神社に戦勝祈願のために参詣し、西之坊威徳院住職(西坊)、連歌宗匠里村紹巴らと連歌を巻いて奉納した。その祈願にこめた光秀の敵が、三日後に彼が討ち取る主君織田信長か、それとも信長に征伐を命じられた毛利軍なのかは藪の中とすべきである。だが、光秀の発句が、天下を〈しる〉、つまり一国を統治するために、きわめて大事な一戦の時が来たと詠んで、神仏の加護を求めていることは明白である。光秀の願いが愛宕の神に届いたかかどうかはわからない。御承知の通り、光秀はまもなく秀吉に討ち取られ、その生涯を閉じた。明らかなことは、正当な連歌とは抜き差しならない運命と共に、つまり神仏と共にあったという事実である。 その後、徳川が史上初の中央集権国家を樹立し、享受者や世界観の移り変わりに従って連歌(俳諧)の内実も変化する。中世において正当であったものが骨抜きとなり、儀式ゆえに有効であった会席の掟も千篇一律な美意識も、その目的の希薄化に伴って価値を失ってゆく。子規が排除の対象として凝視していた当時の旧派の情況とはこれで、先に形骸化と言ったのは以上のような理由による。
  子規は連歌俳諧史における晴と褻(け)の交替を求めた。晴の文芸とは姿を優先し、褻の文芸は内容を重んじることである。他者が詠んだ上句を通して下句を案じる(あるいはその逆)、という付合形式を否定したのではあるまい。付合は抒情を目的とする題詠和歌や、季題を通した感情描写である俳句と基本構造において同じである。もし子規がそれを否定したのなら、近現代俳句さえも残ることはなかっただろう。その意味で子規の改革は、芭蕉・蕪村や一茶の仕事と異ならない。彼らの俳諧の多くは褻の産物であった。
  往時茫々、気が付けばボクらの定年もすぐそこである。ここらで再会を果たして、置き去りにしてきた連歌俳諧などをたしなんで、遊んでみるのもよくはないか。
(日販図書館サービス『ウィークリー出版情報』第26巻3号/2007.1.23より転載)





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