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詩歌に癒されて生きる

◆ 第3回 悲しい標語 谷地快一

 芭蕉の「ものいへば唇寒し秋の風」という句は、彼が芭蕉庵に掲げて眺めていた鶴亀という作者の「ものいはでたゞ花をみる友もがな」という句に唱和した、いわば句兄弟だが、この句が秋風の季節に関わりなく親しまれる理由は、「座右之銘/人の短をいふなかれ/己(おのれ)が長を説くなかれ」(『小文庫』)という前書があって、誰にも心当たりのある苦い反省、自戒の気持ちが一人歩きしたからだ。いわば家康の家臣である本田作左衛門重次が、留主を守る妻に送った「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな馬肥せ」に近い教訓性がその人気の秘密で、描写による命の領域の拡大である詩歌としては上等でない。与謝蕪村の描写力を梃子(てこ)に、詩歌の近代化を志した正岡子規の視野には、こうした教訓性の排除も入っていた。とすれば、排除されたものはどこで生きつづけているのか。そんなことを考えていたら、『標語誕生! 大衆を動かす力』(角川学芸出版)に遭遇した。
  本書は標語の起源を探りつつ、その言語表現が詩歌とは異なるかたちで大衆を動かしていった経緯を明らかにする。著者によれば、標語の概念が確立した第一期は大正八年から十一年で、格言と信じて疑わなかった「一銭を笑ふ者は一銭に泣く」が貯金奨励標語の公募入選作で、作者があったことに驚かされる。標語とは、第一次世界大戦の結果として生まれた、大正デモクラシーなる市民参加の気運の中で誕生したらしい。だが、国勢調査の推進目的に公募された「一人の嘘は万人の実を殺す」「上手に書くより正直に書け」「一家の偽(いつわり)は一国の偽」などを読むと、その論旨は正当としても、文体に背筋が寒くなる。「お互(たがい)に座席を讓り合ひませう」「お互に不行儀な事は止めませう」など、鉄道の公徳標語の入選作は今に通用する名句。とりわけ女性の化粧室と化した電車内が似合うか。「万世一系 億兆一心」「勤労の鋤(すき)に不毛の地なし」は内務省の募集に入選した民力涵養標語。詩歌に失われた道徳訓はこんなところで生き延びていた。
  第二期、すなわち標語隆盛の時代は大正十二年から昭和十一年で、関東大震災後の復興・再興・新興気運を背景に、「まづ健康!」「健(すこや)かなる者は既に富めり」とは健康増進、「ぜひ国産!」「国産にかへれ」とは国産愛用の標語で、「政治は国民の色に染まる」「投票は人にたのむなたのまれな」などの政治標語や、「赤心一票」「丹心一票」と真心を強調する選挙粛正標語などがいじらしい。
  だが、うすうす承知のことながら、圧巻の名に価するのは国策標語の時代と分類される昭和十二年から二十年敗戦までの期間で、内閣情報部(後の情報局)の発足がメルクマールであるというのは著者の解説である。標語が戦時国策(戦争遂行)に活用される時期で、「遂げよ聖戦 興せよ東亜」(朝日新聞)、「聖戦へ 民一億の体当り」(読売新聞)、「進め一億 火の玉だ」「日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニユーヨーク)」「米英を消して明るい世界地図」(大政翼賛会)などが目白押し。「国あり 我なし この日あり」(日本カレンダー)という語のおぞましさは「大詔奉戴日(たいしようほうたいび)」の語を知って倍加する。大詔は戦争開始時に天皇が発布した文書で、それを校長が全校生徒に詠み上げて訓辞を垂れた毎月八日を大詔奉戴日という。
  来し方を目の当たりにする思いで読み終えて、ふと、地方の平凡な床屋の主が戦争にとられて、上司の命令に従って捕虜を刺殺した結果、C級戦犯として処刑されるという「私は貝になりたい」という名画がを思い出した。標語の公募に入選して、得意であったのもつかの間、秋風に唇を寒くした作者も少なくなかったのではないか。入選者には教育関係者や児童生徒も少なくなかったという。自作が、名言として大衆を動かす力を持ったがゆえの悲しみ、その震える心を傷ましく思う。この歴史が来し方を照らすものであり、行く末を示すものでないことを切に祈る。
(日販図書館サービス『ウィークリー出版情報』第26巻8号/2007.2.27より転載)





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