俳文学研究会会報 No.56   ホーム

日時 平成21年9月27日(日)

内容 鈴ケ森刑場跡・品川水族館・大森貝塚公園・品川歴史館ほか吟行
場所 浜離宮芳梅亭

◎特選句 数字は選句数

― 谷地海紅選 ―

◎秋暑し磔石の穴四角 無迅
 新涼や少女に席を譲られて
 刈込んだ芝に名残りの曼珠沙華 喜美子
 新涼や八百屋お七が夢のあと ひぐらし
 新涼や小仏刻む石燈籠 ひぐらし
 爽涼の風入れ句会浜離宮 希望

互選結果

◎秋暑し磔石の穴四角 無迅 4(内特選3)
 貝塚に縄文の風秋の風 ふみ子 1
◎新涼や妖艶クラゲ透き通り つゆ草 3(内特選2)
◎鈴ケ森みかんの垂れる火炙台 佳子 2(内特選1)
 秋風に品川宿の想ひかな 1
◎新涼や少女に席を譲られて 7(内特選2)
 障子洗ひ東海道に干してあり 文子 1
 刈込んだ芝に名残りの曼珠沙華 喜美子 1
 逆走の一匹が好きいわし槽 希望 1
 ハッピ着て祭りに急ぐ母息子 冨美子 1
 枯萩の残れる紅や「信じてる」 月子 1
◎秋空へ逃げたき鱏(えい)は飛ぶ形 正浩 3(内特選1)
 気をもたせ二度色直すスイフヨウ 美規夫 1
◎人の手にキスしてイルカ秋涼し 海紅 1(内特選1)
◎命あり天高くあり卒業す 美知子 1(内特選1)
 新涼や水琴窟に雅聞く ふみ子 1
◎鈴ケ森火あぶり跡に彼岸花 美規夫 2(内特選1)
 曼珠沙華火刑の石に穴一つ 正浩 1
 竜宮に迷ひし如き水澄める つゆ草 2
◎水引の小さき秋に幸を見る         ふみ子 4(内特選2)
◎貝塚の白き地層や涼新た 無迅 4(内特選4)
◎彼岸花身をほぐしてや果つる日の 良子 1(内特選1)
 海風や頬を伝つて秋は来ぬ 蒼子 1
 新涼や眠れぬ母のシルエット 喜美子 1
 苔むしろ亭主帛紗をさばきをり 千寿子 1
 秋蝶の小さき貝の名を持てる 海紅 6
 秋風や卓に小さき忘れ靴 芳村 1
 曼珠沙華えにしの君の再来(さいき)かな 支考 1
◎吟行の友のつむりに草の絮(わた) 文子 1(内特選1)
 新涼やイルカの回すフラフープ 正浩 1
◎新涼や縄文広場霧の立つ 美規夫 1(内特選1)
 刑死者の血を吸ふ石ぞ秋暑し 1
 吾亦香(われもこう)揺れて母呼ぶすずめあり 美知子 1
◎新涼の水琴窟にそそぐ水 文子 1(内特選1)
 色変へぬ松ビル群を屏風とし 希望 1
 新涼や襖をはづせ窓あけよ 海紅 3
◎我を濾す水琴窟よ秋の日に 良子 1(内特選1)
 縄文の古代に誘ふ水琴窟 主美 1
 吾亦紅ふれてほほゑむ女の子 富子 1



参加者 
谷地海紅 尾崎喜美子 奥山美規夫 堀口希望 三木つゆ草 大川蒼子 米田かずみ 大江月子 ひぐらし 宇田川良子 平岡佳子 伊藤無迅 義野支考 大箭冨美子 大原芳村 小出富子
 水野千寿子 金井巧 安居正浩 椎名美知子 谷美雪 平塚ふみ子 西野由美 根本文子

 
欠席投句者
柴田憲
 

《 吟 行 記 》

 品川水族館から水上バスに乗り、浜離宮で句会の予定だった。この路線が廃止なって大分経つらしいが、そうとは知らず急遽企画変更の案だった。折しも水族館は見飽きているという声も入ってきた。とはいえ集合場所を掲示した後なので、変更も利かない。苦肉の策が今回の二コースとなった。歩いて句材を見つけるか、水族館にとどまりじっくり練るかの選択である。
 鈴ケ森刑場跡まで同行し、そこから別行動となる。兼題「新涼」と鈴ケ森刑場跡と浜離宮が共通の舞台である。
 歩きコースと水族館組が暫しの別れを惜しむかのように鈴ケ森刑場跡で歓談する。此処は東海道の宿場外れにあたり、品川宿に向かう途中、親族が罪人と別れを惜しんだ涙橋がある。罪人ながら肉親が火炙り、磔にされる末期を目の当たりにするのは耐えられない悲しみである。鈴ケ森刑場跡に火炙り台、磔石が名残を留めている。
    秋暑し磔石の穴四角          伊藤無迅
    曼珠沙華火刑の石に穴一つ      安居正浩
 穴一つと穴四角との差異で違った感じするのも言葉の持つ深さだ。動物には無い言葉を身につけた人類の奥深さでもある。反面言葉で以て人は失敗することもある。断っても断ち切れない人の持つ宿業の深さというものだろうか。
 石に柱を立てる磔は尊属殺し、主人殺しの刑罰である。火炙りの刑は、放火犯に科せられる。
八百屋お七は、奉行の暗黙の計らいを押しのけ火炙り台に立った。殆どが高温で直ぐに絶命するというが、お七はどんな断末魔を叫んだのだろうか。火炙り台の傍らに彼岸花が立っていた。
風に揺れる可憐な花とは裏腹に根は毒があり、地獄と天国を併せ持っているかのようでもある。
    曼珠沙華えにしの君の再来(さいき)かな          義野支考
 水族館に季語を見つけるのは難しいと歩きコースで囁かれる。室内の空間から秋を探すのは確かに難しい。下手をすれば、こじつけになってしまいそうで、水族館組がどれに季語を結びつけるのか気がかりだった。しかし他人の心配など愚にも等しい程熟練者はうまく結びつけた。
    秋空へ逃げたき鱏(えい)は飛ぶ形          安居正浩
 海にはやすらぎをもたらす波長があるという。母の如く故郷の如く、海は汚濁、悲しみも全て受容してくれる。海を舞台に限りない広さを漂う自由がいいか、限られた空間で安全に暮らすのがいいのかわからない。
 鉄道の地下道を抜け、縄文時代をイメージした大森貝塚公園に入れば、霧が立ちこめている。三十分単位で人工的に霧を作る装置で、子供達が霧を掴もうとして抱え込むような仕草をしたりして跳ね回っている。霧に包まれた世界に、うすぼんやりとした縄文時代が浮かび上がっていくような錯覚すら覚える。
    縄文の古代に誘ふ水琴窟          米田かずみ
 海辺だったこの地で縄文人はどんな暮らしをしていたのだろうか。その日暮らしの狩猟、魚獲りを終えて火を囲み食事する家族団らんの絆は、今以上にあったのではなかろうか。何も無い代わりにそれ以上の望むものも無い生活は、案外豊かにする第一条件なのかもしれない。そんな思いで水琴窟に耳を澄ませば見えないものが見え、聞こえないものも聞こえてきそうな澄んだ音だ。
    我を濾す水琴窟よ秋の日に          宇田川良子
 水琴窟は縄文広場から大井町駅に向かう途中品川歴史館にある。安井財閥の私邸であったが、茶室、水琴窟、庭園が残された。昭和初期に建てられ、建坪四百坪、部屋が二十以上もあった。
    新涼の水琴窟にそそぐ水          根本文子
 富裕層に及ばぬが、この水琴窟の音をたっぷり染み込ませ金では買えぬ贅沢な潤いを体験した。
 品川歴史館内は品川宿の宿並模型がある。江戸時代を彷彿させる東海道第一の賑わった宿場の座敷を再現し、浮かれている人形も置かれてある。他に古代から、戦中の貧しい暮らしから、戦後の復興が紹介され、現在迄の生活用品が展示されている。今当たり前に暮らしいているものの先人の涙ぐましい働きぶりがあっての歴史だった。歴史は作られるものと偶発的なものがある。戦後の廃墟から、今日の発展はがむしゃらの一言だろうか。その方達も大分高齢となった。
    新涼や少女に席を譲られて          金井巧
 浜松町で降りて、芝離宮、イタリア公園を通っていく方法もある。近くにはイタリア街という建物群もある。時間も押し迫り句会会場浜離宮には新橋から歩く。浜離宮は将軍家の鷹狩りの場から甲府藩下屋敷となり、その後徳川家宣が手を加え、造園して今日に至っている。その時に植えた松が三百年以上経て尚も旺盛な緑を茂らせている。
    色変へぬ松ビル群を屏風とし          堀口希望
 緑豊かな庭園にビル群が迫っている。近未来的都市と、古式日本庭園との景観も歴史の歪みなのだろうか。新は壊すことから始まり、旧は維持に他ならない。すべからく壊すことはたやすく、維持するのは難しい。建てられて大分経つ会場の日本間は狭いので、襖を取り外し大きな部屋にした。ぎりぎりの時間まで練ってできた句が一番新鮮であるのというのも頷づける。
    新涼や襖をはづせ窓あけよ          谷地海紅
 選句も「頭で考えるのでなく読んで感じたものを一番大切にせよ」との指示があった。
 祝いの水引と解釈し「水引の小さき秋に幸を見る」を特選句にした。理由がある。娘が所帯をもったばかりだった。式を挙げず両家の親を交えての簡単な食事会だけで済ませた。乳幼児の頃から預け、保育所では一番早くおしめが取れ手間がかからなかった。成積不振で退学の危機もあったが、進学、就職も一人で決め、さっさと家を出て、そして伴侶を連れ結婚するという報告だった。形式に捉われないのが今時なのだろうが、挙式費用を考慮してのことだった。まだ若い二人にはそれ程の収入も無く、1LDKの小さなアパートが新居となった。小さな家庭の出発、小さな幸へのお祝いという思いが水引と重なって選んだ句だった。
 後日、作者から植物の「水引」と聞き、根拠のない自分勝手な想像の末路に、選句の難しさを思った。同じ言葉で意味の異なる時の解釈の仕方をどう判断するかだ。特に熟考の時間が無い句会では尚更だ。水引が植物ならば季重なりである。季重なりも辞さないというものの、やはり形式に従ったほうが安心感を覚える未塾者である。もう一人特選句に選んでいて、調べとほのぼのとした幸が伝わってくるのは確かで、悪くはないと思うのだが、選んだ方の意見を聞きたいものである。

   会終了後、今秋卒業した安居さんのお祝いを兼ねての懇親会があり、定例の居酒屋句会は中止した。期待して参加された方には申し訳ないとお詫びしたい。


 

中川英子さんの訃報                      谷 地 快 一
  十月九日に中川英子さんが亡くなられたという。昭和十三年のお生まれというから満七十一歳の生涯である。東洋大学国文学科卒だが、それが通信教育部である点に彼女の矜恃はある。その後は大学院で藤原雅経研究に没頭し『明日香井和歌集』の翻刻や考察、そして全釈など三冊の著書を編み、市村宏先生の遺産である「迯水短歌会」に属して『夕陽』『朝陽』二冊の歌集を世に問うた。書道教師として目黒高校・文華女子高校・筑波大附属坂戸高校などの非常勤講師を勤める教育者でもあった。今年いただいた『朝陽』(七月刊、渓声出版)で癌病を告白していて、巻軸の一首に「皆さんに感謝の気持伝へたく写真も載せて思ひ出にせむ」とあり、「あとがき」には、病を得てから今まで以上に前向きであると書いているのを読んで、前向きに生きたことのない私の胸は痛んだ。強い人だった。
    吊橋は二つの川の合ふあたり人の渡ればゆらゆら揺れぬ    中川英子
  これは私の好きな歌。彼女もまた吊り橋を渡って遠くへ行ってしまった。合掌

 

【 吟行のお知らせ 】

 十二月に一泊研修を予定していましたが都合により中止させて頂きます。今回はミステリー吟行とします。
  日時 十二月二十日(日)午前十時 丸ノ内線赤坂見附駅出口D集合。雨天決行。
半蔵門線、南北線、有楽町線で永田町駅が直ぐ近くです。
  午後二時より甫水会館で句会。(歩きに自信の無い方は直接句会会場へおいで下さい)
吟行はあまり動かずじっくりのほうがいいという指摘があり、赤坂周辺としておきます。駅が近くにあり、疲れた方は早目にきりあげ会場に向かってください。

 赤坂の歴史は一五六七年に人継村(ひとつぎむら)の開拓から始まる。江戸時代に町屋、武家屋敷が造られ次第に市街化された。明治になり、大名、武士に変わり、新政府の官僚が赤坂へ繰り出し、夜の政治が交わされる場となった。一説には多くは地方出身で新橋、柳橋の芸者に相手にされなかったからともある。
 名残か中心地を一ツ木通りが貫いている。T字路にぶつかり赤坂通り、更に乃木坂に続く。乃木坂を上りきった処に乃木神社、乃木大将の旧居が公開されている。中に入れず、外からの見学となるが、乃木夫妻が殉死した位置が示されている。明治天皇崩御の際には、乃木は既に殉死を決めていたという。自刃当日の日記念撮影を残している。夫の覚悟を止める訳にもいかず、妻静子は進んで道連れとなったのか定かでは無い。
自ら命を絶ち、後に乃木神社が建てられ祀られた乃木に対し、紀尾井町清水谷で襲われ非業の死を遂げた大久保利通、紀尾井坂をのぼった赤坂喰違見附で岩倉具視が暴漢に襲われ堀に落ち軽傷で命拾いしている。此の辺一帯は徳川紀州藩、尾張藩、彦根藩井伊家の屋敷があったところで、辺りは広大な敷地で人通りも少なく鬱蒼とした茂みもあり、刺客には狙い易い地理にあったと現場に立てば、理解できる。主義主張を貫く手段が血を染める事件史を残した明治から、未来的高層建築の群立に逆に渇きすら覚えるのは私だけだろうか。ビル群に囲まれ、微かに江戸の名残を留めている日枝神社、豊川稲荷、氷川神社がある。失われつつある伝統、古式の維持は、忘れかけた日本人であることへの回帰なのかも知れない。                             酔 朴 記 

俳文学研究会会報 No.55
   
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