白山句会 高浜吟行報告
日時 平成24年12月15日(土)〜16日(日)
吟行 茨城県石岡市高浜、恋瀬川河口・霞ヶ浦周辺
句会場 茨城県石岡市高浜、旅館「いづみ荘」
☆ 白山句会高浜吟行 <第七回 芭蕉会議の集い>
年初に計画した世話人による持ち回り白山句会は、いよいよ最終句会となり、今回は谷地先生自ら世話人となり企画された。同時に例年開催されていた「芭蕉会議の集い」と忘年会も兼ねた企画となった。午前中何とか持った空模様も、集合地「高浜」駅に着いた時には、今にも降りだしそうな空模様であった。宿に着く頃には霧雨状態から本格的な雨模様となり、傘を差しながら素十句碑、恋瀬川周辺の散策を行った。その後谷地先生の講義「素十の秀句(冬)」を聴講した。
講義では、吟行という作句形態を通して俳句という短詩型の本質を分りやすくお話され、その例句として素十の俳句を鑑賞された。吟行では予め準備してきた句は役に立たない、それは「先入観を捨てろ」という美の女神の啓示である。それを捨ててしまえば、目や耳や鼻が勝手に働き始めるという内容のお話であった。そして「俳句は削ること、それしか他の詩型に対抗はできない、削る事とは焦点を絞り凝視すること。そしてそれを受け入れ、承認・満足し、それを喜ぶこと」と俳句創作の骨法をお話された。(その効果は翌日の句会で多くの秀句を生んだ)。
初日は講義の後、入浴、夕食、二次会と夜の更けるまで親睦が続いた。明けて二日目は一面の冬霧、朝早く恋瀬川、霞ヶ浦を散策する人、昨日の句を推敲する人と思い思いに八時半の句会開始を待った。
< 伊藤無迅・記 > |
☆ 谷地海紅選 ☆
句碑守は駅長さんよ山茶花よ |
千年 |
年越しの一泊楽し恋瀬川 |
富子 |
もみぢ踏む湖畔の丘に素十句碑 |
喜美子 |
水鳥のねぐら包みて葦暮るる |
月子 |
杖に寄り友山茶花の下で待つ |
文子 |
冬空に色とりどりの傘開く |
由希 |
恋瀬川果てなむところ時雨宿 |
無迅 |
名にし負ふ霞ヶ浦の冬の朝 |
喜美子 |
冬ざれ湖ペットボトルの漂へり |
こま女 |
山茶花にたつぷりの雨素十句碑 |
富子 |
無患子を拾ひ一人の恋瀬川 |
文子 |
実南天崖の下にも墓のあり |
かずみ |
冬の靄押し黙りたる湖畔かな |
つゆ草 |
冬日濃き霞ヶ浦の目覚めかな |
由希 |
冬霞夢まぼろしか人温し |
松江 |
<以上、句会における海紅添削を含む。>
☆ 互選結果 ☆
6 |
山茶花にたつぷりの雨素十句碑 |
富子 |
|
5 |
もみぢ踏む湖畔の丘に素十句碑 |
喜美子 |
|
5 |
枯葎よしきりの声雨を切る |
瑛子 |
|
5 |
鴨の声沼に迷ひを解きに来し |
海紅 |
|
5 |
冬の靄押し黙りたる湖畔かな |
つゆ草 |
|
4 |
何もかも棄てて凛々しや冬木立 |
通斎 |
|
4 |
杖に寄り友山茶花の下で待つ |
文子 |
|
4 |
恋瀬川さかさまつげに冬日さす |
富子 |
|
4 |
無患子を拾ひ一人の恋瀬川 |
文子 |
|
4 |
実南天崖の下にも墓のあり |
かずみ |
|
3 |
句碑たづぬ住持おはせぬ冬の寺 |
泰司 |
|
3 |
力こめ湖へ飛び立つ冬の鳥 |
かずみ |
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3 |
句碑守は駅長さんよ山茶花よ |
千年 |
|
3 |
水鳥のねぐら包みて葦暮るる |
月子 |
|
3 |
素十句碑枯葉残さぬまるみかな |
千年 |
|
3 |
冬空に色とりどりの傘開く |
由希 |
|
3 |
色紙見てその句碑を見て年惜しむ |
海紅 |
|
3 |
冬ざれ湖ペットボトルの漂へり |
こま女 |
|
3 |
枕堅しキツネ鳴くらん恋瀬川 |
月子 |
|
3 |
冬日濃き霞ヶ浦の目覚めかな |
由希 |
|
2 |
村時雨百段上り素十句碑 |
無迅 |
|
2 |
恋瀬川果てなむところ時雨宿 |
無迅 |
|
2 |
やれ舟に鴨のいこひてうみしづか |
泰司 |
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1 |
冬紅葉散り染め歩く雨の午後 |
由希 |
|
1 |
また会ひに来たき紅葉に出合ひけり |
瑛子 |
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1 |
年越しの一泊楽し恋瀬川 |
富子 |
|
1 |
石段を登れば素十と山茶花と |
良子 |
|
1 |
障子開け差し込む光朝寝坊 |
清子 |
|
1 |
杖をつく媼を囲む冬の霧 |
無迅 |
|
1 |
村時雨素十碑清め過ぎにけり |
つゆ草 |
|
1 |
かがやきて光る湖面や年の暮れ |
清子 |
|
1 |
芦枯れて霞ヶ浦のささら波 |
通斎 |
|
1 |
百家争鳴届かぬ湖の冬句会 |
ムーミン |
|
1 |
時雨来て寂色迫る湖畔宿 |
つゆ草 |
|
1 |
冬の霧ヘッドライトを優しゆうす |
良子 |
|
1 |
名にし負ふ霞ヶ浦の冬の朝 |
喜美子 |
|
1 |
薄光や時雨の玉の光るほど |
瑛子 |
|
1 |
マフラーを霞ヶ浦に忘れたり |
千年 |
|
1 |
枯木立靄のむかうが恋瀬川 |
美雪 |
|
1 |
冬晴れや天への花道あでやかに |
ムーミン |
|
1 |
冬霞夢まぼろしか人温し |
松江 |
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☆ 参加者 ☆ <順不同・敬称略>
谷地海紅 相沢泰司 尾崎喜美子 三木つゆ草 米田かずみ 大江月子 宇田川良子
小出富子 水野ムーミン 谷 美雪 中村こま女 菅原通斎 市川千年 佐怒賀清子
鈴木松江 情野由希 根本文子 谷地元瑛子 伊藤無迅 |
< 伊藤無迅・記 >
◆ 高浜吟行 ◆
集合地は常磐線高浜駅であった。電車は高浜駅手前で鉄橋を渡る、恋瀬川である。恋瀬川は『常陸風土記』では「志筑川(しづくがわ)」と記され、水源は筑波山と記されている。しかし実際は石岡市の吾国山が水源らしい。水量は豊かであるのに比し総延長は短く直ぐ霞ヶ浦の北端に注ぐ。茨城・栃木県には恋瀬川をはじめ、味のある名をもつ川が多い。恋瀬川のほかに喜連(きつれ)川、思(おもい)川などがあり、演歌の題材にも取り上げられている。高浜駅前に降り立つと、初参加組の鈴木松江さん、佐怒賀清子さんがマイカーで先着していた。一同旅館の送迎バスで恋瀬川の河畔にある宿泊地、割烹旅館「いづみ荘」に向う。旅館に着くと、先発していた谷地先生と高知から参加の市川千年さんが出迎えてくれた。雨の中、早速谷地先生の案内で周辺の散策をする。先ずは素十句碑に向う。句碑は近くの無住持の小さな寺の境内にあった。
句碑たづぬ住持おはせぬ冬の寺 泰司
谷地先生の話によると、素十は句碑嫌いであったという。素十の句碑をネットで調べると、北は北海道から南は鹿児島まで広く分布し、何と八十一の句碑が建立されているようである。恐らく大部分は、素十が亡くなった後に立てられたものであろう。句碑に刻まれた句は「湖の月の明るき村に住む」とあり、先ほど旅館で目にした素十自筆の色紙に書かれた句である。
色紙見てその句碑を見て年惜しむ 海紅
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< 素十句碑 湖の月の明るき村に住む > |
先生の話によると素十は現在の茨城県取手市に生まれており、この辺りは言わば地元に当る。このため素十を慕う俳人が多く、素十もよく招かれて当地を訪れたという。その際「いづみ荘」は、素十馴染みの宿だったらしい。また谷地先生が若き日に高校教師として赴任した地はこの地に近く、俳句の師である村松紅花先生も素十門下ということで「いづみ荘」の句会には数多く参加したという。
山茶花にたつぷりの雨素十句碑 富子
雨に濡れた句碑は立派なものであった。この碑の建立に貢献し、自ら句碑守を任じていたのは谷地先生もご存知の元駅長夫妻であったという。旅館に帰り二階の部屋から外を見ると冬の雨に煙る霞が浦と恋瀬川河口が見えた。霞ヶ浦を地図で見ると、ちょうど銚子に狙いを定めた鏃(やじり)の形をしている。鏃の後方に反った二つの反りの部分の下(南)側の先端が土浦で、上(北)側の先端が高浜になる。霞ヶ浦は周知のように琵琶湖に次ぐ日本で二番目の淡水湖で、その湖水は銚子の手前「銚子大橋」付近で、坂東太郎(利根川)と合流し銚子灘に注ぐ。私事で恐縮であるが、小生が社会人になりたての頃、茨城県鹿島にある某製鉄所のシステム構築の仕事で、霞ヶ浦の南端にある潮来町に二年ほど起居したことがある。その際に休日に石岡まで車を駆ったことがある。ちょうど左に霞ヶ浦、右に北浦を見ながらその間を走った。途中、麻生町、玉造町、鉾田町といった素朴極まる田舎町の町並みに魅了された記憶がある。高浜もそういう雰囲気を持った町で、私の古い記憶を懐かしく呼び起こしてくれた。
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< 高野素十 > |
さて高野素十のことであるが、素十と言えば先ず水原秋桜子との関係が取りざたされる。この件については、平成十九年に行われた第二回の「芭蕉会議の集い」でも取り上げた。その年の「論文を読む会」の成果を、「秋桜子と素十に学ぶ」と命題し座談会形式で発表した。ご記憶の方も多いと思う。周知のように、二人は直接に対立したわけではない。実際には、虚子と秋桜子の俳句観の相違からくる問題であった。秋桜子と素十は、共に虚子の門下生であり、東大時代は東大俳句会で先輩・後輩(秋桜子が一年上)の間柄であった。二人は虚子に才能を高く評価され、後の所謂「4S」と呼ばれるホトトギスの秀才グループに名を列ねることになる。二人が頭角を現した昭和初期は、大正ロマンを経て社会的にも、また文壇的にも濃厚にロマンティックな空気が漲っていた。その空気は俳壇にも及び、耳に心地よい言葉や耳目を引く大仰な言葉が横行していた。そのような表面的効果を追う俳句傾向に虚子は大きな危機感を持っていた。虚子は時代に敏感に反応する大衆に対し一定の理解を示しつつも、そのぶれ幅には常に神経を払っていたようである。子規亡き後、碧梧桐に対抗する上で「子規に還れ」の号令と共に、写生重視を打ち出したことがある。この時もこの効果が顕著に出て写生偏重に振れすぎた際、それを補正するため一時期「主観写生」を唱えたことがある。しかし再び主観に振れすぎると、こんどは「客観写生」を強調した。つまり、ぶれない虚子には、大衆のぶれがよく分ったのであろう。終始一貫ぶれなかった虚子は、あの戦争でさえ「戦争は俳句に何の影響も与えなかった」と言い切るほどの信念の人であった。つまり戦時中の戦争俳句でさえ「ぶれ」の一種と見、いつでも補正できると達観していたのであろう。まさに「貫く棒」の人であったと思う。そのような虚子が秋桜子の作品を見れば、秋桜子のぶれ幅も、さらにはそのぶれ幅がホトトギス俳句へ如何に影響するかさえ鋭く読み取っていたと思う。一時期秋桜子は素十句を無味乾燥な「草の芽俳句」と誹謗していた。しかし、現在素十の句を改めて読みなおせば、秋桜子の言は当らない。谷地先生が講義で鑑賞したように、素十の句は言葉のもつ本質的なものを大事にし、その上に立った客観写生を忠実に実行していることが分る。それは特に季語について顕著である。まさに客観写生の頂点を極めた作品群と言える。
翌朝、目覚めると宿の周囲は冬霧に閉ざされていた。霧は直ぐに晴れ、昨日とは打って変わり素晴らしい冬晴れの朝であった。
冬日濃き霞ヶ浦の目覚めかな 由希
句会後、駅まで散策を兼ねて歩く事になった。今日は衆議院の投票日である。旅館を出ると投票所に向う近隣のおばさんが、我々を見て「どう言う関係のご一行ですか?」と声を掛けてきた。「俳句です、皆な期日前投票を済ませています」と答えておいた。
高浜駅に着くと、プラットホームから筑波山がよく見えた。連歌は別名「筑波の道」とも呼ばれ、俳諧・俳句もこの道に連なる。筑波山の麓で句会を開ける幸せを改めて噛みしめた。
< 伊藤無迅・記 > |