日時 平成24年10月13日(土)
吟行 横浜山手地区界隈
句会場 山手234番館 二階 会議室
◇ はじめに
今年四月から始めた世話人による持ち回り句会も今回で四回目を迎えた。今回は根本文子さんが当番で、三木つゆ草さん、織田嘉子さんのお骨折りも頂き横浜山手にある元町公園内の「山手234番館」で行なわれた。高名な外人墓地に隣接するところで横浜港の眺望も良く、また何よりも好天に恵まれた句会日和であった。午前中、世話人の案内で自由参加の山手地区界隈散策があった。「外人墓地」や「みなとの見える丘公園」、「神奈川近代文学館」(島崎藤村展)、「大佛次郎記念館」、「山手資料館」などを散策した吟行句も多く出句された。体調を崩していた安居正浩さんが、久しぶりにお見えになり総勢十九名の盛況な句会となった。
句会に先立ち先生から、以下のお話があった。
・このところ比較的多忙な生活を送っているので、今日のように日常を遮断して、ぽっかり空いた句会の一日を恵まれるのはありがたく、人心地がつく思い。
・世話人当番制句会も四回目となり、ある程度軌道に乗ってきた感あり。これを長く続けるために、今後は世話人の労力を減らし、最小限の準備でできる簡素かつ自然な句会を模索したい。その意味で「運営マニアル」簡素化の検討に参加したい。
・次回十二月の句会の予告案内。
・日時:12月15日(土)〜16日(日) 一泊二日
・場所:霞ヶ浦湖畔 いづみ荘(割烹旅館)
・宿泊代:7,000円程度(一泊二食)
「第七回芭蕉会議の集い」を兼ねます。詳細は追って案内します。
< 伊藤無迅・記 > |
◇ 横浜句会のまとめ <当季雑詠・吟行句三句出句、五句選(内一句特選)>
☆ 谷地海紅選 ☆
◎ |
身に入むや藤村稿に朱の迷ひ |
安居正浩 |
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サザエさん居さうな町や花カンナ |
伊藤無迅 |
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藤村や簡素の二文字水澄めり |
安居正浩 |
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少し風フランス山に赤トンボ |
宇田川良子 |
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珈琲店窓の向かうに水芙蓉 |
米田かずみ |
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行く秋や飛鳥U発つ銅鑼の音 |
菅原通斎 |
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秋晴れや老舗看板ブリキなり |
三木つゆ草 |
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秋風にたはむれてゐる釣りの浮木 |
堀口希望 |
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秋バラを明治に植ゑし資料館 |
西野由美 |
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秋冷の名にふさはしき今朝の庭 |
椎名美知子 |
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☆ 安居正浩選 ☆
◎ |
少し風フランス山に赤トンボ |
宇田川良子 |
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海も空も果てしなきもの暮れの秋 |
谷地海紅 |
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サザエさん居さうな町や花カンナ |
伊藤無迅 |
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秋高しゆつくりめぐる観覧車 |
菅原通斎 |
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波音を残してゆきぬ秋の風 |
谷地海紅 |
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秋風や寂と休らふ氷川丸 |
堀口希望 |
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三日後の脚に出る張り猫じやらし |
伊藤無迅 |
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身に入むや藤村の詩も浜風も |
三木つゆ草 |
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亡き人の面影揺れる菊の花 |
情野由希 |
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☆ 互選結果 ☆ <◎:特選>
7 |
身に入むや藤村稿に朱の迷ひ |
安居正浩 |
◎◎◎◎◎ |
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ハロウィンの人形眠る乳母車 |
情野由希 |
◎ |
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6 |
月夜茸青年秘密を今日明かす |
大江月子 |
◎ |
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4 |
人恋ふる水茎のあと秋深し |
青柳光江 |
◎ |
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3 |
秋高しゆつくりめぐる観覧車 |
菅原通斎 |
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藤村や簡素の二文字水澄めり |
安居正浩 |
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異人墓色なき風をまとひけり |
安居正浩 |
◎ |
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艦橋に立てば明治の秋の空 |
堀口希望 |
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秋色の横浜めぐり影一つ |
小出富子 |
◎ |
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波乗りのうまき鴎やいわし雲 |
宇田川良子 |
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海も空も果てしなきもの暮れの秋 |
谷地海紅 |
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2 |
サザエさん居さうな町や花カンナ |
伊藤無迅 |
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波音を残してゆきぬ秋の風 |
谷地海紅 |
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亜麻色の髪の乱れや秋土用 |
青柳光江 |
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秋風や寂と休らふ氷川丸 |
堀口希望 |
◎◎ |
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三日後の脚に出る張り猫じやらし |
伊藤無迅 |
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秋晴れや老舗の看板ブリキなり |
三木つゆ草 |
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秋風にたはむれてゐる釣りの浮木 |
堀口希望 |
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1 |
階段の木目も古し秋日かな |
平塚ふみ子 |
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猫好きの作家の部屋にも鰯雲 |
米田かずみ |
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気笛なる大さんばしに秋日映え |
小出富子 |
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訪ふ人きんもくせいの香を連れて |
椎名美知子 |
◎ |
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秋風や外人墓地の夢の跡 |
菅原通斎 |
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生命と彫らるる墓石秋高し |
西野由美 |
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丘公園佇てば潮騒秋の声 |
三木つゆ草 |
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やや寒や次郎の家の猫あまた |
大江月子 |
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少し風フランス山に赤トンボ |
宇田川良子 |
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行く秋や飛鳥U発銅鑼の音 |
菅原通斎 |
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「求めよ」とさはやかに神授けらる |
西野由美 |
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坂下りて会ひにゆかむや秋の海 |
宇田川良子 |
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単品の海軍カレー鰯雲 |
伊藤無迅 |
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秋バラを明治に植ゑし資料館 |
西野由美 |
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浜風のふはりと秋の風に乗る |
谷地海紅 |
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秋の薔薇誰かのために咲く力 |
根本文子 |
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俳諧は花野に迷ふ亀と居り |
根本文子 |
◎ |
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秋冷の名にふさはしき今朝の空 |
椎名美知子 |
◎ |
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☆ 出席者 ☆ <敬称略、順不同>
谷地海紅、堀口希望、安居正浩、根本文子、伊藤無迅、三木つゆ草、
米田かずみ、大江月子、宇田川良子、小出富子、平塚ふみ子、中村こま女、菅原通斎、西野由美、椎名美知子、青柳光江、情野由希、織田嘉子
<欠席投句者> 菅原通斎 |
< 三木つゆ草・記 >
かねがね「戦艦三笠」を見たいと思っていた。理由は明治という近代日本の原点を訪ね、そしてその痕跡に直接触れてみたいと思うからである。特に三笠は日露戦争の勝利を決定づけた日本海海戦の旗艦である。そこに近代日本の原点が生々しく凝縮されているだろうと思うのである。たまたま九月の「論文を読む会」で、根本さんから「記念艦みかさ」のパンフレットを貰い、その思いが俄に甦った。白山句会の今回の句会地である横浜からは電車で僅か二十分、家を少し早く出れば十分見学可能であった。当日は七時半に家を出て十時前には、念願の三笠艦上に立った。三笠は明治三十五年に英国で造られた。丁度、正岡子規が亡くなった年である。翌三十六年には連合艦隊の旗艦となり、三十七年には日本海海戦の前哨戦とも言うべき黄海海戦に初陣している。そして運命の明治三十八年五月二十七日、当時世界最強と称されたロシアのバルチック艦隊と大海戦を行ない世界海戦史上類のない圧倒的勝利を収めた。国民主義者でもあり近代合理主義者を自称した正岡子規が存命であったなら、さぞかし歓喜したであろう。それだけロシアの南下政策は日本にとって国家存亡の危急の問題であった。
初めて見る三笠は予想したスケールより二回りも三回りも小さかった。東郷長官、加藤参謀長、秋山参謀たちが立ちZ旗が翻る、あの有名な艦橋図の艦橋も、また秋山真之(さねゆき)が「敵艦見ゆ」の報を聞き、阿波踊りに似たしぐさで小躍りする後甲板も予想よりはるかに狭かった。一通り見て廻り一番印象に残ったのは、左右艦側の副砲室に下がるハンモックであった。副砲の砲身が、ほぼ半分を占める狭い部屋に、触れんばかりに二つのハンモックが下がっていた。砲兵はこのハンモックに寝て砲と昼夜を共にしていたのであろう。これほど殺風景な寝室は他にはない、なんとも気の毒である。砲兵と砲を、こういう形で一体化させて砲のあらゆる癖を見抜き、そして砲を分身化する。そうすることで命中率を飛躍的に上げたのであろう。実際日本側の命中率はロシアに比し相当に高かったらしい。砲であれ、何であれ運命を共にするものとは、起居を共にして一体化をはかる。これは極めて日本的な姿だと思う。他にも艦長室の狭さや鋼鐵むき出しの内装など「明治近代」の痕跡を興味深く見ることができた。
実は艦内の展示物を見ながら脳裏を去来するものがあった。それは前日、三笠を見るにあたり拾い読みした司馬遼太郎『坂の上の雲』の次の一節である。
やがて飯田少佐が真之のところへやってきて、草稿をさし出した。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聨合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」
とあった。「よろしい」真之は、うなずいた。飯田はすぐ動いた。加藤参謀長のもとにもってゆくべく
駆け出そうとした。そのとき真之は、「待て」ととめた。すでに鉛筆をにぎっていた。その草稿をとり
もどすと、右の文章につづいて、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と入れた。
日本海海戦の高名なシーンで、三笠から東京の大本営に戦闘開始を報告する場面である。この一節を読み久しぶりに感動が込み上げた。始めて読んだ数十年前も、ここで涙が込み上げたような気がする。しかし不思議な事に、飯田少佐の作った草稿「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聨合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」だけ読んでも感動はしない。これに「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」が入ると涙が出るのである。文章とは面白いものである。否、これは文章(散文)ではなく漢詩調の立派な韻文とみて良いのではないか。感動をもたらすのはそのためだと思う。しかしこの真之の追加した条は、後日海軍内部で問題になる。当時の海軍大臣山本権兵衛が、「秋山の美文はよろしからず、公報の文章の眼目は、実情をありのままに叙述するためにある。美文は動(やや)もすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世をまどわすことがある」(『坂の上の雲』)とクレームがついたのである。しかし真之には、これを美文にする意識はなかった。この条はその日の早朝、東京の気象官から真之に届いた天気予報の一文「天気晴朗なるも浪高るべし」であった。真之はこれを思い出し咄嗟にそれを付け加えたという。後日それを付け加えた理由も明らかとなり真之の名誉は守られた。理由とは、かつて日本の陸軍補給船がロシアの巡洋艦に脅かされていたが、これを追っていた上村艦隊が濃霧で何度もこのロシア巡洋艦を見失い、海軍の評判を、えらく落としていた苦い経験があった。それを踏まえたもので、今日はその恐れ(濃霧)がないことを暗に伝えることにあったと述べている。『坂の上の雲』では、さらに続けて飯田少佐の「之ヲ撃滅セントス」の特に「撃滅」を取り上げ、
この時代の軍人の軍隊文章というのは、陸海軍を問わず、現実認識という軍人にとってもっとも
重要な要素から決して浮き立つことをしなかった。要するに、こういう極端なあるいは誇大な
用語はこれ以前に使われたことがなかった。
と述べている。話は変わるが正岡子規が俳句革新で狙ったのは、あるいは山本権兵衛の発想と似てはいないだろうか。美文、つまり手垢の着いた小賢しい技法を優先し、実体を詠おうとしない月並俳句を、写生(写実)という外来思想を取り入れ実体を在りのままに表現しようとしたという解釈である。そう考えると、日本の近代化を文学面から言えば、韻文に纏わり着く様々な弊害を廃する活動と思えてくる。子規だけではなく前述したように、明治政府の中枢にある山本権兵衛でさえ、海軍内の一参謀の文章を問題にしている。明治の近代化というものは、国を挙げて美文(韻文)の弊害を廃そうとしていた。そういう一面をもっていたのではないだろうか。目的に向って錐(きり)のように国民の心を尖らせる。三笠の時代はそんな時代であったように思う。
さて、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の扱いをどう考えるかに戻る。この条がないとまったく感動しないし涙も込み上げてこないという事実の方である。私は真之が追加した一文は、連句の「付け」の呼吸に良く似ているとおもう。たまたま読んでいた山本健吉の本に、『猿蓑』の「初しぐれ」の一節があり、これに良く似た光景がある。
おもひ切たる死ぐるひ見よ 史邦
青天に有明月の朝ぼらけ 去来
山本によると、史邦句は決死の形相で大勢の敵中に切り込んだ戦闘シーンで、それを受けた去来句は戦闘がおわり、ひっそりと空に有明月が出ている光景を詠んだものである。山本は動と静が見事に詠まれた佳句と去来の付けを絶賛している。一方「初しぐれ」の戦闘後の静かな自然描写に対し、
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聨合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
における真之の追加句は、去来句同様の自然描写句である。しかし去来句とは対照的に動を詠みこみ開戦直前の緊迫した状況をさらに感動的にしている。
真之は子規と同郷で幼馴染である。その郷里松山は俳諧が盛んな土地である。このため真之は俳諧の心得をもっていたであろう。そう考えると、これはやはり連句の「付け」の呼吸ではなかろうか。現に山本権兵衛(この人も嗜みとして連歌か連句の経験はあったであろう)が、これを美文とみたのは「撃滅」よりもむしろ「本日」以下の件を「付け」と見た為ではないだろうか。
人間はロボットではない、やはり涙が込み上げるような感動が必要である。何よりも韻文は人間の心をなごませ、落ち着かせてくれる。しかしそれまでの歌壇・俳壇は極端に「いえのもの」化してしまい、韻文本来の働きを削ぎ、その弊害ばかりを蔓延させ、日本人の心は擂粉木(すりこぎ)のようにフラットになっていたのではないか。このため明治政府は外敵に備え、そのような日本人の心を錐のように先鋭化するのに躍起であったかもしれない。そういうことを漫然と思いながら三笠のタラップを降りた。
振り返えると戦艦三笠は見事な鰯雲の下にあった。
午後の句会に間に合うよう早めの昼食をとることにした。公園入口にある喫茶店に入り「海軍カレー」と叫ぶと、奥から「単品ですか」と鸚鵡(おうむ)返しに声が返ってきた。
単品の海軍カレー鰯雲 無迅
< 伊藤無迅・記 > |