■200611_01_akapen 事務局 2006/11/01-15:05 No.[250] |
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外(と)にも出よ盆の月ぞとメール来る | |||
千葉ちちろ
2006/11/01-18:50 No.[251]
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いや〜、この句は見た瞬間いい句だなって思いました。 「出よ」とか「月ぞ」とあるので男性の句じゃないかなと推察いたします。友より「家の中で飲んでばかりいないで外に出てみよ!盆の月がきれいだぞ!」とメールが来たので、団扇を持って庭に出てみれば盂蘭盆の月が涼しげに見え、ついご先祖様の冥福を祈らずにはいられない気持ちにさせられてしまった。そんな心境でしょうか。 係助詞の「ぞ」を上手く使っているなと思いました。 私も「ぞ」を使った句を詠んでみたいとかねがね思っていたのですが、例えば「春風ぞ吹く」などと古来より多くの歌に詠み込まれているので、なかなか創れずにおりました。「月ぞ」もありふれてはいると思いますが座五の「メール」という現代用語でガラッとかわり、上手くいえませんが新旧の折衷で救われているのではないかと思います。 | |||
濱田惟代 2006/11/01-21:57 No.[254] | |||
「盆の月」盂蘭盆の月ではなく、童謡の「でた でた 月が まあるい まあるい まんまるい ぼーんのような月が」と歌われている、丸いおぼんのようなお月さん」と言う意味ではないでしょうか。ここでは「十五夜の月が素晴しいから外に出て見て御覧なさい」、と言うお勧めのメールと思います。言い回しがちょっと古めかしく文語調でメールだったらもう少し簡単な会話調がふさわしいのではないでしょうか。私は最近、鰯雲があまりにきれいだったので友人に「雲ががとてもきれい」とメールをしました。早速「空も高くてきれいです。」と返信があり、その澄んだ青空と鰯雲を離れた所に居る友人と同時に眺めることが出来ました。メールの素晴しさをつくづく感じました。月と雲の違いはあれ、このメールをされた方と私は心境や動作がよく似ています。この美しさを共有したいという気持ちは伝わってきます。「ぞ」はすこし強過ぎるような気がします。メールを俳句に読むのは非常にむつかしいですね。 | |||
千葉ちちろ 2006/11/01-22:08 No.[255] | |||
続きです。「ぞ」にばかり捉われてしまいましたが、「外にも」の「も」も係助詞であり、いずれも強調を表わしていて、「盆の月」が一段と美しくもあり、侘しくもあり、せつなくもあり、と感じられますね。なんとなく作者はどなたか想像できそうです。 | |||
千葉ちちろ 2006/11/01-22:20 No.[256] | |||
二度目のメールを悩みながら作成して転送しましたら、濱田さんのメールが先に入っておりました。濱田さんは「盆の月」は盂蘭盆の月ではなく、十五夜の月ではないかとのことですが、確かにそのほうがいいかもしれません。でも歳時記では「盆の月」はあくまで盂蘭盆(陰暦七月十五日)の夜の月を意味しています(新暦の盆の月で作句することもありとのこと)。「十五夜」は「名月・明月・望月・満月・今日の月・月今宵・三五の月・芋名月」であり、 | |||
千葉ちちろ 2006/11/01-22:27 No.[257] | |||
なんか途中で転送されてしまいました。続きです。 「・・芋名月」ともいわれ、陰暦八月十五日の中秋の名月を指し、当然新暦でも時期が違ってきます。ということで濱田さんの十五夜の月が私もいいなとは思いますが、先人たちが決めた季語に従って「盂蘭盆」の月とせざるをえないと思います。 | |||
伊藤無迅 2006/11/02-01:35 No.[259] | |||
外にも出よ触るるばかりに春の月 汀女 有名な中村汀女さんの代表句です。原句は明らかにこの句を意識した句と見なければなりません。なぜなら(盆の)月を詠んでいるからです。短歌には本歌取りという世界があります。ご存知の通り定家が好んで挑戦したものです。小生の学習した限りでは本歌取りの場合、礼儀として本歌(もとうた)を超える自信作であることが一般的なルールとなっていると認識しています。原句は「メール」という現代的な言葉の一点で、本歌取りを狙っているかなと感じられます。何故なら、小生には「盆の月」が余りにも月並みと思うのですが、・・・ 皆さん如何でしょうか? | |||
千葉ちちろ 2006/11/02-06:55 No.[260] | |||
またまた無迅さん、いつも勉強になることを教えていただきありがとうございます。確かに私の歳時記にも汀女の句が載っていました。それと濱田さんもおっしゃっているようにこの句は「盆の月」よりも「十五夜」の月があまりにもすばらしいから外に出て見よとメールが来た方がいいような気がしますね。「外にも出よ」の使用の良し悪しは別としてとりあえずは作者の原句を少しいじってみました。 名月ぞ(あるいは満月ぞ、十五夜ぞ)外にも出でよとメ ール来る | |||
椎名美知子 2006/11/02-09:51 No.[261] | |||
季語や先人の句に疎いのが、思ったままに言うのもいいのかなと・・・。 この句を読んだとき、何だか誘われるような新鮮な楽しさを感じました。思わず外に出て空を見上げて、満月をみる。私は単純にお盆のようなお月様と思って。 車で走っているとき、満月に出会うと変わる景色の上にまた現れる満月。その度に同乗の者に「ほら、きれいよ、見てごらん」「見えた?」(ちょっとしつこい、おしつけがましい)と一人で見ているのがもったいなくて声をかける。いらっしゃった、ここにも。きれいな月に気がついたら、教えてあげたくなりますよね。と思わずクスッと笑ってしまいました。ちちろさんのおっしゃるとおり、「ぞ」が効いている。いいですねえ。 | |||
海紅 2006/11/02-10:12 No.[262] | |||
ここでも類句の問題が出ましたね。和歌以来の問題で、昨今も俳壇で議論があるようです。しかし、時代によって、その意味は違う可能性もありますから、「赤ペン」で争点をたくさん出し合って、論文を読む会などで、結論がでる丁寧な議論をしたいですね。類想・同巣・等類という歴史的な問題と位置づけが必要です。また従来の研究は、蕪村に「句兄弟」という関連語があることを見落としています。この語も仲間に入れてあげてください。 なお、あくまで私見ですが、私には汀女の句も心に響きません。「外にも出よ」という言い方には嫌味さえ感じます。春の月に似合わない気がする。 また、作者は汀女の句に意図的に挑戦したのか、知らずに句ができたのか、忘れていたのか、その辺も考察の過程に載せていく必要があるでしょう。 類句は短詩の宿命です。よい句ができれば、自然と淘汰されてゆくでしょう。先作の作者が「私の句の模倣ダ」と、目くじら立てることがありますが、どちらが佳句か、歴史が判断するまで放っておけばよいのです。 | |||
伊藤無迅 2006/11/02-23:29 No.[263] | |||
先生ご指摘のように類句、類想句は短詩形の宿命ですね。小生も後で赤面ものの句は度々です。しかしこれを恐れていては創作できません。明らかに故意と思われるものを除き比較的おおらかに見るのが昨今の俳壇の雰囲気かなと思います。さて掲句ですが、@「外にも出よ」という通常あまり言い回ししない言葉の使用、A月を見なさいという類想からしてこの句は明らかに汀女句を意識した句と見なければなりません。汀女が外より家の中に呼びかけたのに対し、掲句はメールで呼びかけたという違いだけですね。従いまして作者には悪いのですが小生には、よく余興でやる「パロディー俳句」の「古池や蛙飛び込む水がない」と変わらないのではないかと思うのですが、厳しすぎますでしょうか? | |||
根本文子 2006/11/04-11:19 No.[264] | |||
類句、類想は歴史が判断し、放っておけば自然と淘汰される、と言う先生の基本的なご見解に、とても共感しほっとします。私もこれは汀女句へのチャレンジか、何なのかと悩んでしまいました。 外にもでよ触るるばかりに春の月 この句について私の記憶に間違いがなければ次のような解説を読んだ気がします。敗戦直後の昭和21年の作品。それまで爆撃を恐れて、暗い防空壕の中や、家でも電気に布を被せるなど逼塞した暮らしをしていた。それが敗戦とはいえ戦争が終わり、人々は逃げ隠れすることなく安心して自由に外へ出ることが出来るようになった。誰もが人に呼びかけたくなるような大きな開放感、安心して月を見られる。そのような時代背景の中で共感されたと。また女性の作品であることも新鮮だったのかもしれませんね。 | |||
千葉ちちろ 2006/11/05-19:04 No.[266] | |||
根本さんの汀女の句の解説によって、戦後のまだ暗い時期の句だと知り、「外にも出よ」の深い意味がよくわかりました。ありがとうございました。そのことを知るとこの原句は類句または類想句だとしても失礼ながら重みが軽く感じられますね。 ところで根本さん、俳号はまだ決まりませんか? | |||
海紅 2006/11/05-20:43 No.[267] | |||
根本さんの解説もありがたいし、その解説に納得する千葉さんの見識も心地よい。だが…です。汀女の春の句はそれだけの句です。私どもは、時代を超える情感を獲得し、表現し、残さねばいけません。ボクがこういうことを書くと、皆さんのコメントを制限することになるかもしれませんが、遠慮なく海紅を叩いてください。 | |||
濱田惟代 2006/11/05-21:47 No.[268] | |||
根本さんの解説で汀女の句の重み、深さを知りました。汀女の句は戦後自由になった時代が生み出した句といえるのかも知れません。石田波郷の「はこべらや焦土のいろの雀ども」も時代の句でしょう。普段私たちはいまの時代を意識して俳句を作っていル訳ではありませんが何十年か先になって今の時代の句を読む時、初めて時代を感じることが出来るかもしれません。いま俳句人口は大変なもので、句会も花盛りですし句会でいい成績をとるためのカルチャーの俳句教室もにぎわっています。教えらていい俳句が出るなら皆達人になるはずです。しかしそれだけでは出来ない、感性が大きく影響するような気がします。高野素十の「俳句は人間が出来てから遣るのがいいのだがそれではまにあわないからなあ」と言う芭蕉会議オープニングのときの先生からのプリントの言葉があります。人生を長くやってきて初めて感受性も感覚も磨かれ、俳句を作る土台が出来るということでしょうか。先生の書かれた「時代を超える情感を獲得し、表現し残さなければいけません]は俳句を何のために遣るのかと言う問いに対して最高の答えと思いました。芭蕉も時代の俳句に何か不満を抱いて其れを破ろうとし、自分の世界を作り上げたのではないかと思います。句会は時には爽やかさを欠くこともあります。競争の世界はいつもどこかゆがんでいる、そこに邪心が働きます。句会のための俳句ではないではないところに本当の俳句が生まれるような気がしてなりません。俳句が上手くもないのに大それた事を書きました。{笑い) | |||
根本文子 2006/11/06-00:41 No.[269] | |||
「時代を超える情感を獲得し、表現し、残さねば」全くその通りと思います。前書きも、解説もないそのような句が生涯に一句でも残すことができたら最高の幸せです。私もひそかにそう思いおろおろしてはいますが、それはとてもとても難しい。でも創らなければ何もはじまらない。気を取り直して17文字に精魂かたむけよう、その繰り返しです。投稿句については「外にもでよ」をふまえた軽いお遊びのような気がします。俳句は滑稽の流れもあることを理解しているつもりですが、句としてどうかと言われればやはり抵抗があります。でもよい機会ですから先生にお教えいただきながら、類句類想について皆で勉強し、考えたいですね | |||
海紅 2006/11/06-09:23 No.[270] | |||
はこべらや焦土のいろの雀ども 波郷 この句は、時代を超えて語り継がれる姿を持っている。「はこべら」も、この句の中で哀しいほどの強さを読者に伝えてくれる。これは時代の句かもしれないが、それ以上に波郷自身であると思う。汀女の春の月とは格が違う。赤ペンの「盆の月」の句でこうした展開が生まれたことを喜ばしく思う。 | |||
伊藤無迅 2006/11/07-21:33 No.[273] | |||
話題が途切れましたので、視点を変えて実作者の目から一言。実作者の一人として小生は「外にも出よ」は怖くて使えない言葉です。やはり「外にも出よ」=汀女のイメージが強すぎるのでしょう。同じ言葉に(小生の場合ですが)「あえかなる」=波郷、「谺して」=久女などは原句のイメージが強すぎて使うのが怖いです。並みの句では原句に比較され、めろめろになるだろうとの怖さです。小生が掲句に感じたようにパロデー句と見られてしまうことも、その怖さの一つにはいります。 しかし、見方を変えれば敢然とこういうものに挑戦することも大事かと思います。 そういう意味で掲句の作者は挑戦しているかも知れません。そういう気概であれば大変失礼なことを申し上げていることになり、謝りたいと思います。 | |||
根本文子 2006/11/10-17:33 No.[275] | |||
七日、立冬の大きな大きな立ち待ちの月、見渡す限り人影のないみちのくの刈田の畔に、思わず車を止めて見とれながらこの句を思いました。メールを送った人も受けた人も「外にも出よ」をよく知る俳句の友達なのでしょう。だからこそ、そう伝えたくなりますね。でもあまりに有名なフレーズなので、おしゃれととるか、類句となるかやはり難しいところです。なお赤ペンでは必ずしも作者名を出さなくともよいのではないでしょうか。句そのものが大切と思います。 | |||
千葉ちちろ 2006/11/15-07:09 No.[286] | |||
私の最初の勘が当たりました。この句の作者は希望さんではないかと想像しておりました。先月25日に私が会員専用掲示板に作者のコメントが欲しい旨、書き込みをした際、希望さんから28日付で作者はコメントすべきではない、とのお話があり、その後、数人の方からそれぞれのお考えを述べていただきました。そのすぐ後の11月1日のこの句の掲載だったので、もしかしたら事務局も味なことをするなあ〜などと勝手に考えておりましたところピタリと的中。意図したものかどうかはわかりませんが・・・。 この句に対しては汀女句の本歌取り、類句、類想句、パロディ句など色々なコメントが寄せられ、私も最初はすごくいい句だと思いましたが、皆さんのお話で汀女の句を知るに及んで大変失礼ではありますが「な〜んだ」というのが正直な感想です。 作者ご本人は先のご自分のコメント通り、この句に対するご説明などはしていただけないのでしょうか? 「外にも出よ」の使用に対する批判や、「盆の月」は「盂蘭盆の月」より「十五夜の月」の方がいいなどとするコメントに是非お考えを述べていただけたら、この談話室もより活性化すると思うのですが・・・。 | |||
堀口希望 2006/11/15-11:15 No.[287] | |||
【作者からひとこと】 私の拙い句に対して皆様からたくさんの書き込みをいただき感謝のほかありません。通常の句会でしたら主宰の「類句あり。問題外」のひとことで片付けられてしまうところでしょう。 先日、私は「作品は公表された段階で作者を離れ独立する。自句自解はすべきでない」と書きましたが、今日は自説に目をつぶり、ひとことコメントさせていただきたいと思います。 まず、「盆の月」は「旧盆の月」と読むのがいいか、童謡の「盆のような丸い月」と読むのがいいかということですが、これは「旧盆の月」以外には考えませんでした。秋には盆の月・中秋名月・十三夜と、月を愛でる機会が3回ありますが、その中では盆の月が一番騒がれない。今年は7月15日でしたが、新聞でもテレビでも報じられません。それだからこそ「メール来る」が活きるかなと思ったのでした。しかし、(歳時記的知識を離れ)素直に読めば「盆のような丸い月」とも読めるんだということが分かり、何かどきりとしました。歳時記という約束事ににとらわれない「自分独自の目」も大切にしなければいけないなと反省しました。 (ここでスペースがなくなりましたので、とりあえず 送信します。) | |||
堀口希望 2006/11/15-11:53 No.[288] | |||
【「作者からのひとこと」の続きです】 それから「本歌取り」かどうかということですが、これは明確に「本歌取り」のつもりで作りました。ただ出来が余りにも悪く、「パロディ俳句」に堕してしまったのは残念でしたが…。無迅さんご指摘のとおり、和歌の世界では「本歌取り」は無数にあります。俳句の世界でも芭蕉などは結構作っているようです(例えば宗祇「世にふるもさらに時雨の宿りかな」→芭蕉「世にふるはさらに宗祇の宿りかな」)。私は服部嵐雪の「鯊釣るや水村山郭酒旗の風」が好きですが、これは杜牧の「千里鶯啼イテ緑紅ニ映ズ/水村山郭酒旗ノ風…」を本歌とするものでしょう。しかし現代俳句では「本歌取り」はほとんど作られないようです。その理由はよく分かりませんが、俳人に自我意識が余りに強いこと、遊び心が少なくなってしまっていること、類想類句と批判されることへの恐怖感のようなものが作用してしるのかもしれませんね。私は「本歌取り」の条件として、@本歌が誰でも知っている有名な句(詩・歌)であることA句のイメージが(本歌を下敷きにすることにより)広がること、の二つを考えています。問題は「外にも出よ」「谺して」などの有名句のフレーズは「怖くて使えない」し、他方有名句でなければそもそも「本歌取り」にならないという矛盾かと思います。現代俳句では本当に「本歌取り」は成り立たないのでしょうか。 (次に続けます) | |||
堀口希望 2006/11/15-12:02 No.[289] | |||
【「作者からのひとこと」の続きです】 それにしても汀女の「外にも出よ触るるばかりに春の月」の解釈・評価、また波郷の「はこべらや焦土のいろの雀ども」の評価にまで議論を広げていただき本当に嬉しいことです。この句は捨てますが、いい勉強になりました。ありがとうございました。 (最後に、「俳句における「本歌取り」についてご意見をお書込みいただければ幸せです。) | |||
千葉ちちろ 2006/11/15-17:08 No.[291] | |||
希望さん!早速コメントをいただき本当にありがとうございます。私みたいにあまり俳句を知らない者が生意気を言って申し訳ありません。でもこうして作者からコメントをいただけるとやはりその句に対する想いがわかり、とても嬉しく思います。 希望さんの勇気に感謝申し上げます。 | |||
濱田惟代 2006/11/16-00:22 No.[292] | |||
堀口さんの作者のコメントは真実の生きたコメント、そしてとても重みがあり勉強になりました。こんなにも深い気持ちで色々知ったうえで作られた俳句を何も知らない私が狭い心でコメントしていたことをとても恥しく思います。盆の月は満月ではなく旧盆の月で7月になることもあるということを知って驚きました。細かい配慮のコメントに温かみを感じました。ありがとうございました。 | |||