■200609_03 海紅 2006/09/18-14:59 No.[151] |
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水澄むや母を葬る詩を碑とし | |||
三木喜美
2006/09/18-16:23 No.[152]
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「夜なべ終え兎のやうなやさしき眼」の句も「水澄むや母を葬る詩を碑とし」の句も夏に納骨された先生のお母様を想うお気持ちがひしひしと感じられ、これらは追悼句と私は思いました。「やさしき眼」を発見した先生の眼差しも優しく、「碑」に対する深い思いがそのままお母様への詩と通じ、初秋の静かさの中で亡き人を偲ばれている気持ちがしみじみと伝わってきます。 | |||
濱田惟代 2006/09/18-23:09 No.[153] | |||
夜なべ仕事を終え、疲れた後でも子供を見つめる目は慈愛に満ちていたお母さんは、すばらしいお母さんと思われます。たくさんの愛情を頂いたお母さんへ先生は感謝をこめて詩を作られ碑にされるのでしょう。其の詩を是非ご披露ください。「水澄むや]が澄んだ心と響きあってすがすがしさを感じさせ、心が洗われる思いです。 | |||
梅田 ひろし 2006/09/19-08:56 No.[154] | |||
「夜なべ終え兎のやうなやさしき眼」「水澄むや母を葬る 詩を碑とし」なんとやさしい先生のお母さんに対する愛であろうか。いずれの句も今は亡き母を想う海のやうに深く広い愛情に満ち満ちている鎮魂の句である。このようなお子さんを持たれたお母さんはなんと幸せであろうか。「夜なべ」「水澄む」の季語が絶妙で句意を巧みに引き出している。 | |||
海紅 2006/09/19-10:01 No.[155] | |||
三木喜美さんがあまりの名鑑賞を加えてくれしゆえ、出にくうなり申した。実はこゝにいふ詩は藤村の詩なり。詳細は後日に…。 | |||
三木喜美 2006/09/19-12:43 No.[156] | |||
余計な事を書いて申し訳ありません。先生のブログで「碑」に特別の思い入れがあるのを知り、お母様を思う気持ちが同じような深いものがあると感じたものですから、例えそれが藤村の詩でもそこに託す思いは一緒だと思います。 | |||
根本文子 2006/09/22-15:08 No.[162] | |||
「水澄む」の季語の選択が抜群で、この句を忘れ難いものにしていると思います。作者は「母を葬る詩」を見出し、それを心の碑としょうと思われたのでしょう。そのことによって母は作者のなかで、澄んだ水のような「透明なひとひらの詩」となって永遠のいのちを得るのだと思います。そして更に父や母の死の受容に迷う私たちに普遍的な力をもって語りかけてくれる一句とおもいました。 | |||
根本文子 2006/09/25-00:18 No.[171] | |||
この作品は平成十一年、馬込の藤村詩碑に遭遇した時に詠まれたものと知り少し驚きました。私はこの度のお母様ご逝去の後の、お気持ちと思いましたので。しかし年月を経ても、私たちの心に深く届くと言うことは、この句が普遍的なちからを秘めているからだと思います。私は来月、亡き父の生地カナダを訪ねるのですがこの句を支えに、水澄む心で戻りたいものです。 | |||
三木喜美 2006/10/06-16:32 No.[198] | |||
藤村の「母を葬るのうた」を読みました。 うき雲はありともわかぬ大空の 月のかげよりふるしぐれかな きみがはかばに きぎくあり きみがはかばに さかきあり くさはにつゆは しげくして おもからずやは そのしるし いつかねむりを さめいでて いつかへりこむ わがははよ 紅羅ひく子も ますらをも みなちりひぢと なるものを ああさめたまふ ことなかれ ああかへりくる ことなかれ はるははなさき はなちりて きみがはかばに かかるとも なつはみだるる ほたるびの きみがはかばに とべるとも あきはさみしき あきさめの きみがはかばに そそぐとも ふゆはましろに ゆきじもの きみがはかばに こほるとも とほきねむりの ゆめまくら おそるるなかれ わがははよ | |||