■200609_01_akapen 事務局 2006/09/11-17:09 No.[139] |
|||
ゴム草履砂に埋もれし残暑かな | |||
千葉ちちろ
2006/09/12-07:51 No.[140]
| |||
夏の名残を感じる句ですね。しかし、意味はわかるのですが、これですと砂に埋もれているのは残暑なのかなって勘違いしそうです。比喩として残暑が砂に埋もれるという表現もあるとは思いますが、中七以降を「砂に埋もれしゴム草履」ならどうでしょうか。例えば「秋暑し砂に埋もれしゴム草履」とか「秋暑し砂場に残るゴム草履」とか。 | |||
千葉ちちろ 2006/09/13-06:00 No.[141] | |||
昨日の続き。「砂に埋もれし残暑かな」は連用形+過去の助動詞「き」の連体形「し」+体言になっているので、砂に埋もれているのは残暑になってしまうと思います。この句をこのまま生かすならば、この「し」は単純な接続助詞の「て」にして「ゴム草履砂に埋もれて残暑かな」の方がいいのではないかと思います。 この赤ペン句会は「ほうたる」以降4句目ですが、先生が赤ペンという意味は推敲という意味があって、日本語表現としておかしいところは遠慮なく述べ合え、とのことでしたので自分の意見を述べさせていただきました。 先生が選句したこれらの4句はいずれも秀句だと思います。しかし、失礼ながらいずれも最優秀句ではないと思います。つまり、ほとんどが動詞、助動詞、助詞などの使い方にいま少し注意をすればすばらしい俳句になるのではないかということです。先生は秀句と認めていながらも、敢えて17文字の中の一字一字の大切さを考えて欲しいがためにこれらの句を選句しているのだと思います。初心者のくせに生意気を言ってごめんなさい。 | |||
濱田惟代 2006/09/13-22:27 No.[143] | |||
夏の盛りに履かれていたゴムぞうりが残暑の頃には浜辺で捨てられ砂にうもれているという句でしょう。[砂に埋れし残暑]とすると「し」が連体形でゴムぞうりと残暑が付いてしまいます。ここは「うずもれ」「埋れゐる」[埋れリ]と切ったらどうでしょうか。「し」は過去ですからまったく見えなくなって埋れている感じになります。完了の継続の「り」で今埋れているとすると少しぞうりが見えてきて場面が生きてくると思います。夏の終わった寂しさを捨てられたぞうりで表現した作者の感性は素晴しいと思います。 | |||
千葉ちちろ 2006/09/14-06:28 No.[144] | |||
濱田さん、おはようございます。完了の存続の「り」や「ゐる」も賛成です。でも「砂に埋れり残暑」「砂に埋もれゐる残暑」となってゴム草履ではなく、残暑が埋もれていることになると思います。「埋もれゐる」「埋もれり」「埋もれし」の場合は後にくる語は「ゴム草履」とし、上五に残暑に相当する語をもってこないと意味が違って受け取られかねないと思います。濱田さんのおっしゃる「うずもれ」か「うもれて」なら後に「残暑」がきてもいいのではないでしょうか。 | |||
濱田惟代 2006/09/15-00:09 No.[145] | |||
残暑が埋れると取る人はいないでしょう。ゴムぞうり から始まっていますから主語述語関係でそこで切れます。ゴムぞうりが砂に埋れている状態が残暑を感じさせると言う句でしょう。残暑は5,7のまとまりに付け加えられたもので内容は切れていると思います。 | |||
千葉ちちろ 2006/09/15-08:41 No.[146] | |||
濱田さん、ありがとうございました。濱田さんのおっしゃることを理解いたしました。ただ、残暑が埋もれると取る人はいないでしょう、と片付けてしまうなら文法的にどうでいいということにもなり「埋もれし」でも残暑が埋もれると取る人はいないでしょう、という言い方にも聞こえてきます。その点だけが気になります。 | |||
村上輪樽 2006/09/15-22:11 No.[147] | |||
始めまして。新会員で、初めての投稿です。 宜しくお願いします。 私は砂に埋まっているのは残暑だと思うのですけど如何でしょうか? 初秋の砂浜に放置されている草履など、詩情がありませんから、ここは作者に敬意を払って残暑が砂に埋もれている、と解釈しました。 夏が過ぎて、人影もまばらな砂浜の寂寥感を表現したものと推察します。 心象句の一種だと思います。 ナマイキ言ってすみませんね。 | |||
千葉ちちろ 2006/09/16-06:38 No.[148] | |||
村上さんの解釈もわからないでもありません。その場合、ゴム草履の存在はどうなってしまうのでしょうか? たぶん、夏の名残のゴム草履が放置されている砂浜に残暑が埋もれている、ということでしょうけど。夏が過ぎて、人影がまばらな砂浜の寂寥感を表現した句であることには間違いがないと思います。でも残暑が砂浜を照りつけているのであって、それを残暑が埋もれるという比喩で言うのでしょうか? | |||
村上輪樽 2006/09/16-21:00 No.[149] | |||
ゴム草履を通して熱い砂、残暑を感じ取っている、と思うのですけどね・・・ まあ、作品の解釈には「正解」は無いと思うのですけどね。 | |||
千葉ちちろ 2006/09/17-05:48 No.[150] | |||
もちろん解釈には正解、不正解はないと思います。村上さんの解釈では作者はゴム草履を履いて砂浜を歩いていたら熱い砂に残暑が埋もれていた(あくまで過去形)のを感じ取ったというわけですね。なるほどね〜。それならゴム草履の存在感もないわけじゃないですね。小生や濱田さんの考えでは、砂に残暑が埋もれると取る人はいないと思っていましたが、いたんですね〜。残暑を足のほうから感じ取って(ゴム草履を通して・・ちなみにゴムは熱を通しましたっけ?)、直接には体で感じ取っていないんですね。おもしろい! | |||
伊藤無迅 2006/09/21-10:32 No.[157] | |||
皆さんの評の視点から少し外れますが、どうも上5、中7から受ける感じが、季語「残暑」につきすぎのように思うのですが、すなわち「残暑」に余りにもぴったり合い過ぎているように思うのですが如何でしょうか? | |||
千葉ちちろ 2006/09/21-15:34 No.[158] | |||
無迅さんの登場をお待ちしておりました!会員の皆さんはこの赤ペン句会をしっかり覗いているはずなのにコメントになかなか参加してくれないので私はもう退会しようかと思っておりました。あいつは小賢しいやつだなんて冷ややかに見られているんだろうなって思うと自分が嫌になりました。コメントをしても作者から句意の説明もありませんし、選句した先生からもなぜ選句したのかのコメントもありません。ただの一方通行か他のコメンテーターとのやりとりだけでは意味がないと思いませんか。ところで無迅さんの残暑にぴたっりつきすぎとか、余りにも合い過ぎとかとかっていう意味はどういう意味でしょうか。なんとなくわかるような気がしないでもないのですがその辺のところをわかりやすく教えていただけるとうれしいです。 | |||
伊藤無迅 2006/09/22-00:12 No.[159] | |||
ちろろさん、こんばんは。前々回の句で少し書き過ぎたかなと反省し少し遠慮申し上げていました。さてちろろさんの質問ですが、非常に重要でまた非常に難しい質問です。俳句は「付きすぎ」が分かれば一人前、面白さが倍加してくるのではないかと思います。「付ける」は俳句を詠んで行くかぎり、それこそ一生「付き」まとうもののようです。これは谷地先生の領域に入ってしまうと思うのですが、語源は俳諧の「句を付ける」からきていると思います。しかし俳句の場合は17文字の世界最短詩形ですから、俳諧のように句で「付ける」のではなく、一句の中で言葉で「付ける」事になります。世界最短詩形ですから、17文字で表現を豊かにする様々な技法を使うわけです。「付ける」もそのうちの一つです。言葉と言葉をぶっつけ合うわけです。そのとき余りにも似たイメージをぶっつけると、ダブってしまい17文字の無駄使いになります。これが「付きすぎ」の典型です。以上は無迅の考えです。如何でしょうか、長文ごめんです。 | |||
伊藤無迅 2006/09/22-00:48 No.[160] | |||
先ほどに続けます。 「付きすぎ」は、句会などでの句友の発言で、実はかなり個人差があると、かねがね思っています。ある人は「付きすぎ」だ、ある人はいやちょうどいい、などよく論戦しています。この句の場合、これは小生の考えですが、「砂(浜)」「ゴム草履」「残暑」とやはり夏をイメージする言葉が並びすぎと小生は思うのですが皆さんは如何でしょうか? もう少し言うと、季語「残暑」のイメージは、まさに上5、中7のイメージに近く、単に季語の説明をしている句と取られかねない微妙な位置にいると思うのです。ただ「砂に埋もれし」ゴム草履は「残暑」の「残」にぴったりなので良いと感じる人と、ぴったり過ぎると感じる人がでてくる訳です、これが「付き」の個人差の範囲です。前者は良句と鑑賞し、後者は「付きすぎ」となるわけです。皆さんはどう思いますか? | |||
千葉ちちろ 2006/09/22-07:29 No.[161] | |||
無迅さん、おはようございます。「付きすぎ」についてわかりやすくご説明いただきそれなりに理解いたしました。ありがとうございました。俳句は奥が深いものですね。無迅さんのご説明にそってこの句をじっくり鑑賞するとたしかに言葉が並びすぎているような気がしますね。しかし、夏の名残の寂寥感を表現していて良い句にも見えるし・・・。他の言葉に置き換えてみるのもいいということでしょうか。 ところで小生の名前は「ちろろ」ではなく、「ちちろ」です。よろしくお願いいたします。 | |||
濱田惟代 2006/09/22-18:05 No.[163] | |||
無迅さん、とても有意義な説をありがとうございました。勉強になりました。ぞうり、砂、残暑ガ付きすぎと言うのがよく分かりました。そこに詰まりすぎていて息苦しく味わいがないということですね。「残暑」を秋を表わす語にしたらいいのでしょうか。かりに「秋の風」とすると夏である砂の中のぞうりと切れてゆとりが出来ますがこういうことなのでしょうか。 | |||
海紅 2006/09/23-08:23 No.[164] | |||
なかなかよい展開で、話のやりとりが行われていますね。これをきっかけにして、配合論(取り合わせ)や二句一章論について話し合ってみる、というようなことが芭蕉会議では大事だと思っています。その場合、それに有効な資料を図書館などで手に入れて、「○○という本にはこうあるが…」「××氏はこう書いているが…」というコメントになっていけば、書き込みの輪が広がっていくでしょう。急には難しいかもしれませんが……。 | |||
千葉ちちろ 2006/09/23-09:40 No.[165] | |||
先生、おはようございます。くだらないことばかり言って申し訳ありません。昨日、カルテモの内藤氏から、より発展させるために先生と色々打ち合わせているとのメールがありました。期待しております。ところで赤ペン句会の選句は先生の選句ではなく基本的には事務局でおこなっていることを知りました。小生ばかりでなく皆さんもそう思っている方が多いんではないかと思います。 先生もご多忙ですからそれはそれでいいと思いますが、たまには先生もコメントへのご登場よろしくお願いいたします。 | |||
伊藤無迅 2006/09/23-11:15 No.[166] | |||
ちちろさん名前すみませんでした。 浜田さんの推敲のように、 秋の風砂に埋もれしゴム草履 あるいは 今朝の秋砂に埋もれしゴム草履 のように「秋」が入ると、ちちろさんの言われるような「夏の名残の寂寥感」も感じられて、良くなってくると思いますが如何でしょうか。 | |||
千葉ちちろ 2006/09/23-11:52 No.[167] | |||
「残暑」も秋の季語ではあるけれど、夏のイメージが強すぎる感じがありますから、濱田さんの「秋の風」とか無迅さんの「今朝の秋」とか「秋」を入れた方がかえって夏の名残の寂寥感を感じさせていいですね。作者の名前が公表されたあとに、作者自身からも是非コメントを頂きたいと思います。無迅さんの言う「付きすぎ」の意味が少しわかってきたような気がします。 | |||
濱田惟代 2006/09/24-10:39 No.[168] | |||
芭蕉会議はまさにカルチャーですね。俳句の学習の場でもあります。会員の俳句力の向上のために力のある方は是非又教えてください。無迅さん、ありがとうございました。「秋」を入れた句でさわやかな俳句になります。俳句は推敲も大いに必要と思いました。 | |||
三木喜美 2006/09/24-17:12 No.[169] | |||
今回の作者は私です。あまりにも沢山の方に添削していただきお礼も兼ねてご報告したいと思い名乗りでました。まだ未熟故自分の句を添削して下さる赤ペン会に恥を忍んで続けて投句していました。二度も採用して下さったのは駄作故ですので、ご了承いただきたく思います。でも今回千葉さんをはじめいろいろな方にコメントをいただき、助詞の使い方や付きすぎなど本当に勉強になり、ありがとうございました。あの句は八月の終わり頃お台場の海岸で若者がサーフィンボードを抱えて夕刻戻って来たのを見てゴム草履と砂浜を連想して作ったものです。だから残暑にしたのですが秋の風が良いですね。皆様ありがとうございました。 | |||
三木喜美 2006/09/24-17:30 No.[170] | |||
追伸 駄作は私の句がという意味で、外の方の句は誰が見ても秀作であることは一目瞭然ですので誤解のないようにお願いいたします。 | |||
三木喜美 2006/09/25-03:12 No.[172] | |||
何だか眠れず句意のことで少し付け加えたいと思います。あの句は私の中では「若者の夏の終わり」を片方だけ砂に埋もれたゴム草履で表現したくなり、最初は埋もれて残暑かなとしたのですが、夏の終わりを意識して「し」にしました。どなたかが言っておられたように砂に埋もれているのは残暑でも良いなあと思いました。その場合「ゴム草履も残暑も砂に埋もれけり」となるのでしょうか。しかし「秋の風砂に埋もれしゴム草履」とすると下手な私の句が生き返るような気がし、表現したかった寂寥感が出てとても嬉しく思いました。言葉ひとつでこうも変わるということを本当に勉強させていただきました。以上です。いろいろとお騒がせし申し訳ありませんでした。 | |||
千葉ちちろ 2006/09/25-07:41 No.[173] | |||
三木さん、おはようございます。私があまりにもごちゃごちゃ言うので作者が公表される前に我慢できずにご自分で先に名乗りをあげてしまったんですね。申し訳ありません。でも三木さんの句を創ったときの状況を知ったことでこの句の意味が理解できました。8月の終わりのお台場でのことといえば、やっぱり「秋の風」というより「残暑」と詠みたくなりますよね。その気持ちはよくわかります。これはあくまで私の考えですが個人のみで楽しむ句ならそれでもいいのでしょうが、赤ペン句会という公の場に登場した以上、読者側にもその句の鑑賞の仕方に色々あると思いますので、ある程度のコメントはお許しください。これまで三木さんをはじめ、他の人の句もあわせて、4句が登場しましたが、それによって俳句の創作の仕方を少しづつ学んできました。これからもよろしくお願いいたします。 | |||