■200907_01 海紅 2009/07/01-12:43 No.[6506] |
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手も足も不自由ゆゑに涼しき眼 | |||
つゆ草
2009/07/03-19:47 No.[6507]
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この句は何年か前の先生の「夏痩せの母の見ている方をみる」の句を思い出します。多分ご存命の時のお母様のことを詠まれた句であると思うのですが、もう観念したお母様のの眼がきっと澄んでいてそこに涼しさを感じたのでしょう。夏が来るたびにそのお姿が浮かびきて懐かしさと哀しさとが湧き上がってくるお気持ちが現れていると思います。亡くなってからのほうが尚強く心に生き返ってくるということを、先生のブログの村松先生への追悼の文をも含めてしみじみと伝わってくるものがあります。 | |||
ちちろ 2009/07/04-09:28 No.[6508] | |||
つゆ草さんの鑑賞を読んでなるほどと思いました。小生も色々と句意について考えてみたのですが難解すぎて困っていました。 「ゆゑに」は一種の強調とも取れますが、だからこそ「涼しき眼」とは、いまだに理解できずにいます。 また、この句の季語は「涼し」ですが、同類の季語をみても「朝涼」「夕涼」「晩涼」「夜涼」「涼風」「微涼」「涼味」「宵涼し」「涼夜」「涼雨」など空気や風などがほどよく冷ややかとか、暑苦しくなくすがすがしく、ひんやりして気持ちよいなどの意味と思います。形容詞の「涼し」が「眼」を形容しているのは小生にとっては季語としていかがなものかと疑問を感じます。 何を形容してもいいとするなら、極論かもしれませんが「涼しい顔」「涼しき方」「涼しき道」もよいとなってしまうのではないでしょうか。それともこれらの「涼し」も季語として成立するのでしょうか。 どなたかご教示願います。 | |||
つゆ草 2009/07/04-19:52 No.[6509] | |||
ちちろさんへ 多分これは私の想像ですが、手も足も不自由ということは寝たきりを強いられた生活と思うのです。人にお世話にならなくてはならないことへの感謝のみの無欲の境地で静かに余生を生きてらしたのではないかと思うのです。そしてその眼は清らかですがすがしい澄んだ心をそのまま表し決して冷たくも暑苦しくもなく、涼しい色に見えたのではないかと思うのです。古語辞典には「涼し」に冷ややかの他にわずらわしさがない、よごれがない、等あります。私は何人か眼の涼しい人を知っています。そんな風に私も言われてみたいものです。どなたかもご意見を入れて下さい。 | |||
ちちろ 2009/07/05-12:31 No.[6510] | |||
つゆ草さん。ありがとうございます。 つゆ草さんのおっしゃることもよくわかるのですが、わ ずらわしさがない、よごれがない、などの場合の「涼し」は同じ「涼し」でも季語に該当する意味とは別のはずです。辞典の約の@の場合は夏の季語を意味する約であるが、他のABなどは季語とは別の意味という風にいくつかに分かれているはずです。 涼しい眼をした人には私も出会ったことはありますが、何も季節に限ったことではなく常にそのような眼をしているのではないでしょうか。 勿論、この句の対象者である方は生まれつきではなく、その時点のみ「涼しき眼」をされていたのかもしれませんが・・・。 | |||
ポプラ 2009/07/05-21:27 No.[6511] | |||
ちちろさんの意見に同調しつつ、このやりとりを読んでこころがざわついてしまいました。コメントどころではありません。 やはり「ゆゑに」は引っかかります。 | |||
小出富子 2009/07/12-23:02 No.[6512] | |||
(手も足も不自由)なのは、例えば、繋がれた牛や馬のことを言っているのではないでしょうか。牛や馬の眼は、やさしく、潤んでいて、涼やかに見られます。私には、句意がこのように感じられます。 余談ですが、品川駅の近くに「食肉市場」があり、散歩していると、牛の鳴き声がし悲しくなります。 | |||
天野 さら 2009/08/02-14:12 No.[6597] | |||
7月19日付の毎日俳壇に「航跡の一直線の涼しさよ」の句について西村和子選者の評は「涼しの一語には体感ばかりではなく心理的な潔さもなども等も含まれる。美意識も感じられる。」と有りました。ここでは全体から受けるさわやかで澄んだ感覚を涼しと表現したのだと思います。 | |||