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 ■201111_02
 海紅   2011/11/16-16:09  No.[7418]
    満天の澄みわたり大銀杏散り

つゆ草   2011/11/18-16:52  No.[7419]
 
    澄み渡った空に堂々と聳え立つ大きな銀杏の木、眼に浮かんできます。銀杏の木が夕陽を浴びると黄金色となり神の木と化します。銀杏の黄色が神々しい色に変わるのです。正にシャッターチャンスなのです。その黄色が散ると今度は地面一杯に柔らかい絨毯を敷き詰め、子犬や子供達の遊び場と化します。蒲公英や菜の花のように黄色は人々の心を癒す効果があるのでしょう。外苑前や昭和記念公園で何度もこんな光景を見ています。赤の鮮やかな紅葉と違って今年ほどこの優しい黄色の果たす役割は大きいのではないかと思います。澄みわたりの言葉と散ってゆく銀杏の儚さの対比がすばらしいと思いました。
 

むらさき   2011/11/24-12:08  No.[7420]
 
    コメントさせていただきます。

余分なものを 削げるだけ削いで(?)この形、シンプルな美しい句です。
余情・余韻がすばらしい!
万物の生成流転をめぐる、作者の感慨ぶかげなご様子が目にうかぶようです。
新しい句境への挑戦でしょうか?

”作者自身の立ち位置”を意識した時、次のようなことが浮かんできた。

澄みわった満天に、先日まで 葉を繁らせ 金色に輝いていた銀杏の大木は、すっかり葉をおとしている。  時は移ろっているのである。
澄みわった満天と、葉を茂らせて金色に輝いていた銀杏の大木は、ともに、事物の生成の頂点・きわみを示し、同格であり、勢いのある”生”そのものであり、”充実”した姿である。 それに対し、葉を落とし空っぽになった樹木は ”老い”を迎えた ”欠落”した姿である。落ちた葉は (一過性の)“死”を意味する。

つまり、”時の移ろい” ”生・老・死 ” ”充実と欠落”をとおして、万物の ”生成流転(万物は限りなく生まれ変わり,死に変わり、変化しつづける)”の様相・実相を、表現しょうとされたのでは? ー と。

その時、作者は、人の誕生や死に立ち会い 自身もやがて消滅してゆく存在であることを受け入れている。そして、自分自身の存在が、大自然の生成流転の流れの一環であることを感受し、澄んだ満天・葉をおとし空っぽになった大銀杏との ”深い一体感 ”のうちにあったのではないか? −と。

この句は、それら一連の感慨を、詠まれたものではなかったか? − と。
芭蕉の「造化(自然)にしたがひ造化にかへれとなり」の”身体化”、および、その表現でもありましょうか? − と。

十七文字のなかに、これだけの内容を凝縮して表現されたことに、敬意を表したいと思います。

「思想(あるがまま)」が根本にあっての、演出・表現なのだと実感した。
「あるがまま」は、単に忠実な写実ではないということが、この作品で 理解できたように思う。

ありがとうございました。


 絶唱の師の句にまなびし詩心(うたごころ)  むらさき
 



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