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 ■200809_02
 海紅   2008/09/17-16:09  No.[5821]
    馬追ひの声につつまれ校正す

余一郎   2008/09/18-05:11  No.[5822]
 
     まわりの蹄の音と掛声や勇壮の出立と作者の坐る部屋の位置このアンバランスは堪らない。
またしてもやられた。こういう発想と表現はできない。
 校正のもつペンが蹄の音と調和し動く、う〜ん何故か聞えてくるようだ。あっ、まさか野に出ている ?
 

ちちろ   2008/09/18-07:31  No.[5823]
 
    余一郎さん。この「馬追ひ」は昆虫の馬追虫、即ち、すいっちょのことです。
秋の宵に原稿の校正をしているとき、耳を澄ますと庭で沢山のすいっちょが合唱しているのでしょう。
虫の声を聞きながら校正をしていると気持ちも落ち着いて仕事もスムーズに進行するのではないでしょうか。
私の近所では昨年は9月11日まで、今年は昨日の17日まで蝉が鳴いていました。今朝、犬の散歩時には蝉はもう鳴いていません。今月の初めあたりから公園のあちこちで虫が鳴きはじめていました。

 

余一郎   2008/09/18-10:04  No.[5824]
 
     こちらのはやとちりですね。
教えてくれて有難うございます。

 「馬追い虫」というそうですね。
勇壮な「馬追い」と思い直感だけの投稿は以後よく考えてします。
 

佐和子   2008/09/21-20:30  No.[5825]
 
     ちちろさん
馬追ひの例句をお願いします。
説明不足です。
 

山房の海紅   2008/09/23-07:15  No.[5826]
 
    スイッチョと鳴くは確かに蓮の中   高浜 虚子
馬追が機の縦糸切るといふ      有本 銘仙
晩学へ馬追ひそむ夜の隅       村岡砂利人
仏らのしづかな藩士すいつちよも   伊藤 四郎
馬追のうしろ馬追来てゐたり     波多野爽波
すいつちよの青し飛び来て書架に青し 宮脇 和正
馬追をきくとはなしに悼みつゝ    山口 笙堂
馬追の緑逆立つ萩の上        高野 素十
 

海紅より訂正   2008/09/23-07:19  No.[5827]
 
    ×仏らのしづかな藩士すいつちよも   伊藤 四郎
○仏らのしづかな話すいつちよも    伊藤 四郎

 

ちちろ   2008/09/23-11:07  No.[5828]
 
    佐和子さん。遅くなりました。先生から先に例句が示されましたが、説明不足とのことなので少し説明させて頂きます。「馬追い」は広辞苑によれば、馬追虫、即ち、すいっちょのことの他に、@牧場で,野馬を埒内(らちない)に追い入れること。A客や荷物を駄馬に乗せて追って行くこと。とあります。
余一郎さんの勘違いされた「勇壮な馬追い」とは、多分、福島県相馬地方で7月23〜25日に行なわれる神社の行事の祭りの2日目に、甲冑に身をかためた騎馬武者たちが行なう「野馬追い」と思われたのでしょう。
「馬追ひ」は秋の季語(十七季の季語辞典では初秋)であ
り、「野馬追ひ」は夏の季語(同じく十七季辞典では晩夏)になります。
辞書や歳時記でご確認ください。

小生の持っている歳時記の中から例句をいくつか。
 ふるさとや馬追鳴ける風の中    水原秋櫻子
 馬追と一つ灯影を二夜かな     山根和子
 馬追が来てくれるなら二泊する   市場基巳
 みちのくの旅の灯に透く青すいと  鷹羽狩行
 馬追や闇に入口出口あり      久保美智子
 すいつちよのちよといふまでの間のありし
                  下田実花
 山の星仰ぐ身に来てすいと鳴く   太田光子
 馬追や京の小寺藪の中       竹田武子
 馬車過ぎて秩父馬追何と鳴く    森田ていじ
 独り居に出前の届くすいっちょん  沢ふみ江

ちなみに、「野馬追ひ」の方の例句は、
 駒とめて野馬追の武者水を乞ふ   加藤楸邨
 たまさかの浜風涼し野馬祭     縣美知
 野馬追の赤熊に隠る女武者     加藤房子
 野馬追のかのいでたちは郷大将   幸田和喜子

 



 

佐和子   2008/09/23-13:51  No.[5829]
 
     作者と思われる方の例選句には多分の気配りがあり深く感謝いたしております。有難うございます。
ちちろさん丁寧に有難うございます。
 

海紅より訂正   2008/09/23-17:28  No.[5830]
 
    実花の句、いいですね。
 

市川千年   2008/09/25-22:27  No.[5831]
 
    秋の夜長にこの欄堪能させていただきました。
どんな文章の校正をされているのか・・興味深々です。
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす(猿蓑)に対する先生の思い(響き)と馬追ひという季語にある風土性・歴史が重なってこの句が誕生した・・・そう感じました。
脇を付けるとすれば「歯にしみとおる秋の夜の酒」パクリパクリの脇の甘さよ・・・・
 

佐和子   2008/09/27-14:44  No.[5832]
 
     余一郎さん

あなたの「あっ、もしかして野に出ている?」は馬追い虫が頭に浮かんだのでしょうか。
こちらの前句、あなたの句感想には専門書でなければ窺えない事柄が非常に簡潔に書かれていました。
 私、弁解がましい事を云わない「鑑賞の美学」を感じております。有難うございました。
 

余一郎   2008/09/29-13:00  No.[5833]
 
     無知で粗忽者としては面映いばかりです。
発信しました以上は不勉強の結果ですから致しかたありません。以後は少し静止したいと思います。
 

余一郎   2008/09/29-19:53  No.[5834]
 
    インターネットの投稿としては間が空き過ぎていますし、がっかりさせないで下さい。
誹謗中傷で無い限り沈黙は時には誰にも好まれません。作者の気配りを無駄にしないよう参加して下さい。
 私も今度は句感想を書かなくてはいけません。
 

余一郎   2008/09/30-08:37  No.[5835]
 
    この上の9/29-19:53の投稿は酩酊状態のものでした。
 慎んでお詫び申し上げます。 石川余一郎
 

佐和子   2008/09/30-22:16  No.[5836]
 
     私の句感想
何故に馬追い虫か、校正かはピンときません。校正する主人公の作者の姿が浮かびません。きっとこちらの感受性の欠如からでしょう。
 さまざまの虫の鳴く夜となりにけり  子規
子規でもこういう句がありますし受け取り方ですね。
それにしても前句には魅せられました。一陣の風と
トンボの逆立ち動と静、蕪村の日本画の世界です。
そして、石川さんの句感想も楽しかったです。

 

むらさき   2012/08/29-14:29  No.[7917]
 
    作者のなかに まだ残っている「緊張感」が、句に緊張をもたらしているような・・。それが、読み手に不思議な感覚・感触をもたらす。はじめてであったような読後感だった。
 

むらさき   2012/08/29-14:52  No.[7918]
 
    (パスワードをいれ忘れて[7917]にはいれませんので、つづき をこの欄に書きます。)

上句と中句「馬追ひの声につつまれ」には、違和感がない。中句と下句「声につつまれ校正す」にも、違和感はない。しかし、上句・中句・下句「馬追ひの声につつまれ校正す」をつづけてよむと、「校正す」の部分で ゴツン、ゴツンと硬いものにぶつかったときのような衝撃をうける。「この硬さは何だろう?」と 読み続けていると、身体に緊張が走った。その瞬間、この緊張こそ 「校正」の本質(心理的な意味での)ではないかと気づいた。

私にも経験がある。出版社の依頼で分担執筆した一文が世にでた後に、たった一字の誤字のために 文章の脈絡に微妙な狂いが生じているのに気づいた時の、あの悲惨な気持、あの悔しさ。 校正は、やはり神経をつかう仕事、気のぬけない仕事なのである。

馬追ひの透きとおる美しい声、声と声との余白に漂う あの余情。気持をしずめ 安らぎをもたらす。「つつまれている」ようなしあわせな感じをもたらす。
にもかかわらず、作者のなかに 緊張感が残った???もしかしたら、この句は その緊張感を吐きだしたくて詠まれたのだろうか???

このゴツン、ゴツンと硬いものにぶつかったような感触のある句から浮かぶのは、美しい整った芝生の上に、突如 無造作におかれた原石の岩・オブジェを発見したときのような、嬉しくも衝撃的な”映像”である。
なんともふしぎな魅力のある句である。校正のリアリテイもつたわってくる。作者の、塊りつつも ほぐされていく光景もみえてくる。

作者は、多分 素直にその場のお気持を詠まれたのであろうが、 読み手の想像力を掻きたてるために編みだされたらしい手法・技法である「取り合わせの妙」的効果、「二物衝撃」論的効果も、はからずも、生じている。
1)「馬追ひの声につつまれ」という抒情的雰囲気があって、「校正す」という抒情性とは無縁の知的作業の緊張感・異質性が浮き彫りになっている。
2)季語にはやわらかい響きが、「声につつまれ」には中間的響きがある。それらがあって、「校正す」の響きの硬質性・異質性が きわだつ。

私の身体に走った緊張感は これらの相対立する構造の
”在り様”に反応し、生起した。この句が内包する 相対立する構造の ”在り様”に反応し、私の記憶の一部(校正に関するトラウマの「痕跡」のようなもの)が、喚起されたのである。

故 サルトルは、「あらゆる文学作品は、呼びかけ(apeel)である」という。読者をとおしてしか、作品にはなりえないのだという。
であるならば、技巧に頼らず、読み手の心の奥深くをゆさぶり、あらたな気づきへと導くことのできた作品は、やはり、すぐれた作品といえるのではなかろうか?

ほんとうにありがとうございました。



  精霊も旅じたくして宵を待ち      むらさき

  ぽつり・ぽつ秋の驟雨のさいごのしづく  むらさき  
 



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