■200808_02 海紅 2008/08/18-15:46 No.[5800] |
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継信のこと摂待の母のこと | |||
余一郎
2008/08/19-08:37 No.[5801]
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歴史も物語りも知らないオイラが主従のこと山伏に成りすました義経一行を摂待した継信の母の事かと想像してみるがこの句は難しい。 季語には関心がないが物語の中に入っているのかも。摂待は地名をモチーフしているとしたら手が込んでいて並ではない。でもなんとなく蝉の声も聞えてくるし泣けてくる。知らないことはオイラの不勉強そのもの。 | |||
山房の海紅 2008/08/19-09:08 No.[5802] | |||
余計なことながら…、 源平の合戦のあと、兄頼朝にうとまれた源義経一行は山伏姿で奥州平泉へと落ちてゆきます。その途中、義経の忠臣として討死にした佐藤継信・忠信の実家で、ふたりの母から素知らぬふりで摂待を受けます。義経らは素姓を隠すのですが、継信の幼い息子鶴若が山伏姿の義経を言い当ててしまうのです。それで、弁慶は佐藤兄弟の最期の様子を語って聞かせざるを得なくなるという人情話があります。謡曲「摂待」では、最後に、継信の子鶴若が義経らについて行くと言ってききません。それをなだめる祖母(継信・忠信の母)の様子はなんとも切ないものです。 | |||
美智子 2008/08/19-13:25 No.[5803] | |||
さてこの俳句は :何と解く:と、課題を与えられたようだ。継信・摂待の母・二つの固有名詞で俳句を完成させるとは、物語を知らなければ理解できない句である。 歴史の一場面であるこの情景には、「愛」がある。 表面に使用されている言葉の中に、どれほどの感情が込められているのか、推し量れない句である。 | |||
ちちろ 2008/08/20-06:46 No.[5805] | |||
3年ほど前だったと思いますが、先生の飯坂温泉での地方スクーリングに参加した際、皆で医王寺の佐藤継信、忠信の墓所にお参りしたしたことがありました。 継信のこと、母のこと、の「こと」は「事」とも取れるし、「如」とも取れます。小生は「如」とみて鑑賞したい。 屋島での戦で義経の身代わりとなって討ち死にした継信の如く、真心を持って世のため人のために尽くしたい。 義経一行十二人が山伏姿で奥州平泉に向かっているとの話を聞いて、山伏摂待の高札を立てて、一行の通るのを待って摂待した継信、忠信兄弟の老母の如く、母までもが忠義を尽くす愛の姿。この母は先生の母と重なって見えたのだと思います。 この句は継信、その母を借りて、先生自身が自分もこうありたいとの思いが詰まった句ではないでしょうか。 | |||
余一郎 2008/08/20-21:31 No.[5806] | |||
早く九月になればよいですな。待つのが辛い。 今度はどんな句がでてくるか。 それから「摂待」は秋八月の季語らしい。 | |||
余一郎 2008/08/28-23:26 No.[5807] | |||
待ち草臥れていたら明日より九月八日まで電波の疎い所に移動しなければならない。 後れを取るのは不本意だが仕方ない。 そこで今までの海紅句抄を読む。 勝手に好きな句を二句上げてみることにする。 春立つやゴミ燃やし鉛筆を削り (2008年02月) 二三言残し一炉に籠られし (2008年12月) 時にして諸兄姉の上げられる句も。 頓首 | |||
余一郎 2008/08/29-00:32 No.[5808] | |||
訂正 2007年12月。 | |||
千年 2008/08/30-07:23 No.[5809] | |||
美智子さんの「・・情景には「愛」」があるという指摘にものすごく魅かれました。この夏帰省の折、入院している母親を見舞った際、逆に励まされているぐうたら息子の自分がいて、ちょっと飛ぶかもしれませんが、この句から「摂待」は「愛の励まし」ではないかなどと感じ入りました。 継信のこと摂待の母のこと 海紅 夏草揺れて出づる少年 千年 | |||
ちちろ 2008/08/30-07:50 No.[5810] | |||
千年さん、久しぶりです。 先生の句にはいつも色々と考えさせられたり、反省させられたりすることが多いですね。 ところで、お得意の連句ときたようですが、余計なことを言って申し訳有りませんが、発句の摂待は初秋の季語で、脇句の夏草は三夏の季語ですから、同季じゃないので違和感がありますね。 | |||
市川千年 2008/08/30-16:05 No.[5811] | |||
夏草を眼目に、二句一章のみの付けです。 もしよろしければ、ちちろさん、脇を付けてみてください。先生にお断りして、白山連句を始めましょう! | |||
ちちろ 2008/08/31-06:18 No.[5812] | |||
二句一章体は当然のこと故、やはり季戻りは勿論ですが、脇句の夏草の方に眼目を置くと言う心構えにも異論あり。 しかし、この先生の句抄の場は連句談義の場ではないのでここまでにしましょうよ。 | |||