■200702_02 海紅 2007/02/12-12:14 No.[489] |
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目つむれば下萌の道正面に | |||
千葉ちちろ
2007/02/13-11:34 No.[496]
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この句は「目をつむれば」とあるので今、現実に草の芽が萌え出ているところを見ているわけではないのですね。 まだ冬枯れの道を歩いているのだけれど、周りの景色や日差しに春の動きが感じられ、まもなく地面のあちこちに緑色の芽生えがあるだろうことを予感しているのでしょう。目をつむれば草が青んだ道が正面に見えてくる。 春の到来を待つ気持ちが伝わってきます。 | |||
堀口希望 2007/02/15-23:21 No.[536] | |||
「緑なす繁縷は萌えず/若草も敷くによしなし/しろがねの衾の岡辺/日に溶けて淡雪流る」と言うような景でしょうか。北国の早春を詠んだ早春の句と拝見しました。 | |||
大江月子 2007/02/16-10:22 No.[546] | |||
この不思議な句はいったいなんだろうとずっとつぶやいていました。目をつむって正面に見える道というものはある意味では詩的な表現であるが、なぜ下萌なのだろう、道が正面とはと。 歳時記に「下萌」をみつけました。古今集のころには「下もえはひそかに思い焦がれる」意味につかわれていて、恋の歌も詠まれています。 そう思ってこの句を解釈すれば、下萌の道は芽吹き始める春への新たな決心と読むことができます。それは、恋でも、学問でも、あるいはなにかへの思いでもいいけれど、つむった目の中に見えるほどのやわらかな下萌の道、けれどつむった目の前に見える一直線の道ほどの密かな決心。下萌という季語に託した春らしいいい句だと今感じとっているところです。 | |||
市川浩司 2007/02/16-13:57 No.[551] | |||
東山魁夷の「道」が浮かびました。たしかあの絵の舞台は青森県八戸の種差海岸の近くだったかと。 | |||
菅原宏通 2007/02/23-10:04 No.[944] | |||
此の句は堀口さんや大江さんの指摘するように何かを踏まえて決意や未来を想像している事を感じます。 しかし私のような初心者には判りにくく、そのじれったを表現すると 高橋東皐(几菫と懇意の仙台藩俳人)の句をもじって「聞いてくれ海紅句解をほととぎす」とでもなるのでしょうか? 東皐の原句:「聞いてくれ其角の句解をほととぎす」 | |||
渡部 陽子 2007/02/25-17:01 No.[1180] | |||
まず、多くの人が感じられているように、作者の決心が詠まれている未来に向けた句と解釈することができます。次に作者が今まで歩いてきた道、若しくは具体的な故郷の道を回想している句として鑑賞することも可能なのではないかと考えました。私は後ろ向きの人間なのでこれから歩く道を希望を秘めてまっすぐ見つめられないからです。ふっと目を閉じた時、青春時代によく通った道が浮かびます。懐かしい想いが広がり正面に道が開けます。この句は、正面という言葉にどう反応するかでいろいろな鑑賞ができると思います。 | |||