■200803_02 海紅 2008/03/17-15:15 No.[4542] |
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青き踏むむかし横浜村といふ | |||
ちちろ
2008/03/26-07:00 No.[4657]
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平野愛子が唄った「港が見える丘」は私の大好きな唄です。ところで、横浜の港を望める場所で青きを踏んだ所とはどこだろうか?今ではほとんどが人工的な公園などになっていて青草を踏んで野遊びをするようなところも少なくなってしまいました。そこから見える横浜の街は近代的な高層ビル群であり、港は世界に誇る国際貿易港として大きな貨物船をはじめ色々な船が出入りしています。 今、青きを踏みつつ眺める港も、約150年前に横浜を開港した当時(1859年)は、神奈川の宿に外国人を入れないために、対岸の寒村である「横」の「浜」を港として開港したという。以後、生糸の輸出貿易港として急速に発展。 当時の絵を見てもその面影は微塵のかけらもない。 発展したほうが良かったのだろうか。それとも昔のままが良かったのだろうか。 さて、皆様、ご無沙汰しております。先日、東洋大学通信教育部の卒業祝賀会で海紅先生にお会いした際、芭蕉会議の千円の会費も払えないのか?と言われました。クソッ、それぐらいあるわい!てなことで今年は払うことにします。この句が掲載されてからもう10日も経つのにどなたもコメントがないので書き込みをさせていただきました。 | |||
山房の海紅 2008/03/26-14:57 No.[4658] | |||
ちちろさんの書き込みを嬉しく拝見。その勢いに勇気を得て、ボクも旧事を追懐します。 数年前のこと。わたくしの姉に近い世代の三人に誘われて、横浜の春を歩いた。この町を目的らしきものを持たずに遊ぶのは三十年ぶりであった。山国に育ったボクにとって海の見える町はいつも新鮮である。学生運動による殺伐たる空気を逃れて、日本を出ていこうとして果たせなかった昔が甦る。赤い靴の女の子や、三島由紀夫さんのこともまぜこぜになって脳裏をよぎる。思えば切ない記憶ばかりだが、このモダンな大都市にかつて横浜村という時代があったという歴史をあちらこちらで目にしてやすらぐことができた。その折に偶然、研究者のKさんに遇って立ち話をして別れた。 ― 散歩の相手が私たちでよかったですね。 姉のような同行者の一人が悪戯っぽくわたくしをからかった。 | |||
三木喜美 2008/03/26-16:54 No.[4659] | |||
ちちろさんお久しぶりです。先生の句にちちろさんのコメントがありビックリするやらうれしいやら・・・です。横浜には私も嬉しい思い出がありこの句をしみじみと味わっていました。これからもどしどしコメントを入れて下さい。 | |||
天野さら 2008/03/27-14:09 No.[4665] | |||
子供の頃私も父母や兄弟と麦踏をしました。麦を強くするためだと聴きました。今思い起こすとあの頃当たり前でなんいも感じなかった家族総出の麦踏が、なんとのどかでぬくもりにあふれていた情景だったかと懐かしくなりました。世は移り横浜村は大都会に農業国は工業国、経済大国にと大きく変わりのどかな日本も国際社会の大波にもまれています。昔を懐かしんでばかりでは取り残されてしまいそうな世の中です。でも時には立ち止まって自分の歩いてきた道を振り返り、今いる位置を確かめることも必要かなと思います。そしてなによりも懐かしい思い出は心の栄養になると思うのです。その意味でこの句は安らぎを与えてくれます。作者のコメントは俳句をよりいっそうよく理解するための道しるべです。 ちちろさんおひさしぶり、桜の花とともにもどっていらしてなによりです、冬眠は長過ぎては出口を見失います。やはり春は嬉しい季節、森羅万象が生き生きと活動をはじめる時、大いに楽しんでください。 | |||
大江月子 2008/03/28-15:46 No.[4670] | |||
数年前に港の見える丘公園の神奈川近代文学館に何かの講演を聞きに行った帰り、弟のような年齢の詩人と偶然一緒になりしばらく話しながら歩きました。ふと振り返ると暮れかけた空、文学館の上にまあるい月がでていました。と嘘のような本当の話です。ちちろさんおかえりなさい! どうぞまたよろしくおねがいいたします。 | |||
尾崎喜美子 2008/04/03-00:05 No.[4841] | |||
ちちろさん、おかえりなさい!! PCの調子が悪く、開けなかったのですがあの卒業祝賀会の日の約束どおり、ちちろさんのコメントが入っていてホッとしました。先生のお気持ちもわかるし、千葉さんのきもちもわかるので悩んでいたのですが、結局先生が道を開いてくださいました。 でも「尾崎さんもコメントをしろ」とおっしゃっても しないのではなくできないので、あしからず、、。 わたくしにとって、横浜は40年以上前に南米へ旅立つ友を見送った港から進化しておりません。 横浜周辺の変貌には目をみはるばかりですが、たまには昔にチャンネルを合わせるのも良いのではないでしょうか。 | |||
市川千年 2008/04/09-23:55 No.[5252] | |||
横浜過ぎて野は緑・・というような鉄道唱歌があったような・・・「横浜村」が日本の、人の行き来も含めた「都市の近代」を想起させくれます。575で近代が理屈なしに語られている句。いやあ素晴らしい、明治時代の連句の一節にも出てきてきそうな・・・・・ | |||
宇津野信将 2008/04/12-01:45 No.[5260] | |||
むかしの横浜といえば、戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式のためにマッカーサーが横浜ニューグランドホテルに宿泊したということを知っています 4月29日に起訴され、戦後A級戦犯として巣鴨プリズンに投獄された28人中の、いずれも僕が目指す場所の5人。皆僕となんらかの因縁があることを知ってしまいました。不思議な気持ちです 僕にはA級戦犯がついています。 広田、東郷、松岡、白鳥、重光 がんばります | |||