■200802_02 海紅 2008/02/18-16:13 No.[4378] |
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河口まで来て凍解をためらへる | |||
市川千年
2008/02/18-21:19 No.[4379]
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前回の「踏絵」と同様「凍解(解凍?)」がよくわかりません。前回は人間界と神域、今回は自然界と人工との取り合わせがなんとなく面白いという感覚はあるのですが・・・「踏絵」、「凍解」いずれも脳か心に堆積したこだわりを打破する動きが胎動している・・私はそう感じました。ううう、初春の秀句かも。 塚本邦雄の「炎天の河口に流れくるものを待つ晴朗な偽ハムレット」(記憶のママ)を踏まえられているのか・・・大きな? | |||
三木喜美 2008/02/20-18:02 No.[4380] | |||
間違えていたら申し訳ないと思いつつ眺めていましたが、前回の踏絵の句については、ごく自然にやりたくないがやらなければならない気持ちを、重々しい踏絵と言う歴史的事実になぞらえて詠まれたのではないかと思います。「絵踏みは寛永五年から安政四年禁が解けるまでの間長崎奉行所などで正月四日から八日に行った。」とあり「歴史的な季題であるが、今も感慨をこめて詠まれている。」〔ホトトギス新歳時記稲畑汀子〕また今回の句の凍解については、「うき我をさびしがらせよかんこ鳥」に気持ちは近く、冬の厳しさの自然の中に自分を置いてもう少し冬の情緒を味わっていたいが河口にきて春の近いことを認識せざるを得ない心地を詠んだのではないかと私流に解釈しました。拙い鑑賞でした。 | |||
三木喜美 2008/02/21-10:36 No.[4381] | |||
補足です。踏絵は、やらなくてはならない事への志の高さの象徴であり、凍解に関しては、待ち遠しかった春がそこまで来ているのに対して厳しかった冬への愛惜の念を純粋に詠んだもので、私のは深読みかも知れません。鑑賞は自由と以前聞いておりますのでご容赦下さいますよう・・・ | |||
市川千年 2008/02/21-14:50 No.[4382] | |||
なるほど!俳句は季節(季節への感慨)を詠むもの、という基本中の基本を思い出させてくれました。 凍解をためらっているのは、凍った河ともとれるでしょうか。北国の水蒸気にけぶる初春の風景・・・ | |||
市川千年 2008/02/22-20:33 No.[4383] | |||
不勉強で失礼しました。凍解(いてどけ)「寒気に凍りついた大地が、春になって解けゆるむこと」。流氷と同じく仲春の季語でした。「凍てとけて筆に汲干す清水かな」芭蕉、「凍てゆるむどの道もいま帰る人」大野林火・・・ためらうのは作者。 | |||
根本文子 2008/02/24-11:28 No.[4384] | |||
深い精神性の感じられる、特選句と思います。「凍る」は、北海道では特に厳しく「凍上」という現象がみられる由。これは地面が地中深くまで凍るため、地表がもりあがり、六、七〇センチにもなるとのこと「図説大歳時記」。それだけ「凍」は深く特にその時間は、私達の想像を超えるながさと思われます。この「凍」に作者の思いがあり、少しずつ少しずつ解けながら河口まできて、本当に解けてしまってよいのだろうか、と逡巡する心のゆらぎを、格調たかく詠まれていると思います。たとえば「雪解川」などは、早春の光をキラキラ浴びながら踊るような開放感でながれていくのですが、掲出句には、一人一人の心の冬、その春がずばりと描かれていて素晴らしいと感じました。 | |||