■200702_01 海紅 2007/02/05-18:54 No.[422] |
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春立つやゴミ燃し鉛筆を削り | |||
福次郎
2007/02/06-00:26 No.[423]
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久々にコメントさせていただきます。 二十四節気のなかで、「春立つ」と耳にする時が一番心弾むときであるように感じます。暑くもなく寒くもなく、若い生命がすくすくと伸びていく心浮き立つ季節。人の心も躍らずにはいられない季節です。 そうした心持ちでは言動までもが浮かれてしまいそうですが、この句の主人公は特別な事は何もせず、自分の日常を淡々と送っているようです。いつもと同じ行動の中に、ようやく芽吹いたばかりの春。 春への親しみの気持ちが優しく表現されていると受け取りました。 | |||
大江月子 2007/02/06-10:24 No.[424] | |||
昔どこの家にも火鉢があったころ、その炭火の中にふと書き損じの便せんを投じ、その炎の中に鉛筆を削ったりしたものです。その炎の記憶と部屋に立ちこめるどこか罪深いような臭いがこの句から立ちのぼってくるようで懐かしい気がします。 朝起きるとエアコンを入れパソコンのスイッチをいれます。考えてみるとそこには臭いというものがないのですね。匂い立つような句を作ってみたいとおもいました。ちなみに私は黄色い三菱鉛筆消しゴムつきのBを愛用しています。 | |||
菅原宏通 2007/02/06-11:59 No.[425] | |||
此の句の情趣は福次郎さんのいうようなことでしょう。しかし舌頭で回してみるとどうもしっくり来ないところがあります。それは 1.動詞「的」な表現「燃やし」「削り」と2つあり落ち着かない 2.下五の字余り 3.下五の「を」の要不要 4.鉛筆が中七と下五にまたがっている このコメントは海紅先生の罠? | |||
堀口希望 2007/02/06-13:14 No.[426] | |||
情趣の点も句としての問題点も、菅原さんに同意見です。もう一つ加えるなら、私には「ゴミ」の片仮名表記も気になります。もともと「ごみ」という言葉に詩が感じられないのですが、片仮名表記するとそれが一層強調されるようで気になります。 | |||
大江月子 2007/02/06-18:19 No.[432] | |||
菅原さんと希望さんが書かれたのでそういうものかと思いましたが、むつかしいことのわからない私は、この句は 春立つやゴミ燃し鉛筆を、まで一気に読んで、を、にアクセントをおいて、あと、削り、と読むと鉛筆が主役になっていいなとおもいます。俳句はあくまでも五七五と読むほうがいいものですか。 | |||
千葉ちちろ 2007/02/06-20:22 No.[433] | |||
菅原さん、堀口さん、こんばんわ。 菅原さんは「燃やし」といってますが、あくまで「燃(も)し」と読むのではないでしょうか。そうすると五・八・四となり、鉛筆は中七と下五にはまたがっておらず、リズム的にはいいのではないでしょうか。一種の自由律の句みたいなものかもしれません。 | |||
福次郎 2007/02/07-01:20 No.[434] | |||
リズムの件は私も気になっていました。 確かに5音7音を重視するなら「ごみもしえんぴ(7)/つをけずり(5)」と落ち着きません。 ですが意味の区切れでは「ごみもし(4)/えんぴつをけずり(8)」と、4音8音になるのではないでしょうか。たたみかけるようなリズムです。 私は、主人公の日常を4/8で述べることで、生活における若干のせわしさみたいなものが生まれているのではないかと思います。 「鉛筆削り(7)/ゴミを燃し(5)」とすることも可能だとは思うのですが、これだと主人公の行動にキレがなくなってしまうように感じるのです。 「春立つや(定型)」でゆったりとさせ、その後を4・8でそっけなくポンポンと語る。しかも「削り」としたことで日常はまだ続くわけですよね。 規則正しい日常と、もう春だというホッとした気持ちとを、音数律の面でもうまく表現できているのでは……というのはちょっと深読みでしょうか? | |||
三木喜美 2007/02/07-12:44 No.[436] | |||
私も難しいことはわかりませんが、この句は「春立つや」に注目したいと思うのです。歳時記を見ると「立春」のところに「春立つ」があり、この日から「春」を意識した句であることは確かであると思うのです。一年の雑務的あるいは心情的な区切りを残存したゴミを燃やし処分することにより清算し、新たに鉛筆を削る行為により今年の文学に携わる活動開始だぞ!というような意気込みを感じるのですが・・・いかがなものでしょうか?鉛筆であることがまたとても良いと思うのです。「春立つや」の季語の方に視点をもっていくと、あまり語数のことが気にならないように思います。 | |||
濱田惟代 2007/02/08-21:15 No.[447] | |||
「春立つや」の最初の語はちょっと気取ったいいかたで重々しいのですが後に続く「ゴミ燃し鉛筆を削り」は日常の会話的な語でおまけに並列で中途半端の終わりかたです。一句の中の言葉の使い方が一貫しないような気がします。ここで5,7であるべきものが4,8になっていることが問題にされているようです。私は7,5でハッキリ切れなくとも良いと思います。鉛筆が「えんぴ」と「つ」ななっても7、5で二句をまとめて一つにして詠んでもいいのではないでしょうか。従来からの定型をはずれて、もっと柔軟性を持たせたらどうかという提案の句ような気がします。そして俳句は真善美を詠むべきだなどと聞いたことがありますがゴミはこれに外れます。それから動詞が二つあります。すっきりしないともいえますがこの句ではいろいろやっていることが言いたいのでせわしなさを変えて出しているという福次郎さんのご意見に同意します。 現代俳句などはとんでもないものまで読み込んでいて驚きます。時代とともに俳句の姿も変わっていくのではないでしょうか。俳句は短詩です。厳しい枠から外れていこうとしているこれからの俳句の姿を象徴している句であるように思われます。、 | |||
菅原宏通 2007/02/09-08:43 No.[454] | |||
濱田さん 句の読み方については一部諒承しています。 しかしこのような句を新しい句として許容するのはどうか?と思います(山頭火に根強いファンがいますが) 明治後期の碧梧桐の新傾向俳句、荻原井泉水の一派が大正期に虚子の旧派に駆逐された歴史の繰り返しになるのでは?(型の喪失に賛成するかどうか?) | |||
濱田惟代 2007/02/09-13:49 No.[456] | |||
菅原さん、「コメントありがとうございます。今までの歴史をあまり勉強していない私が書いています。あくまでも私の感じ方、考え方に基づいています。私が新しいという考え方は定型という枠を外れること、また自由な発想の元でどんなものも題材にできることです。私が或る句を批評していただいた句会で、それは俳句にならない、といわれたことがありました。俳句になるのとならないものがあるのかと考えました。誰もが暗黙のうちに認めている俳句的なもの、姿のいいもの、それが今までの俳句を引っ張ってきたと思いますが多様化されたいまの時代に少し窮屈と思う人もいるかもしれません。自由に自分の好きなようにどんな題材も入れて個性的な俳句ができたらいい、と考える時、従来の枠を抜けたくなります。でも俳句は俳句でその中で少しでも破ろうかと試みた人がたくさんいたのではないでしょうか。5,7のリズムを破って4,8にしても17音であればいいのではないかという挑戦の俳句であるような気がしました。 | |||
椎名美知子 2007/02/09-20:56 No.[457] | |||
皆さんの書き込み、勉強させていただきました。 自分の考えを言葉であらわすのって難しいですね。その苦労とともに読ませていただきました。私も挑戦してみたのですが、確かな俳句の知識もなく、あきらめました。で、感じたことは言葉にしたいと思い、掲示板に書き込みました。ご笑覧を。 | |||
椎名美知子 2007/02/10-12:14 No.[465] | |||
とはいえ、何も言っていないじゃないかと思い、書くことに。いつも感覚的でお恥ずかしいのですが。 今年は暖かくて暦の上だけではなく2月4日は春立つの感がしました。この句からは土の匂い、煙の匂い、鉛筆の木の香もしてきて、この先にまだまだすること、したいことが続いていて、生き生きとした躍動感が伝わってくるよう。確かにこの場所に作者の存在を感じます。 季節の到来は五感のうち、嗅覚に最も早く届くような気がしています。五感に訴えられる、作者がそこに存在する作品が書けたらいいと思っておりましたので、いい作品に出会えました。 | |||
久保寺勇造 2007/02/11-09:02 No.[473] | |||
十七文字である。この形態、打ち違いではないか。 いや待て、逸る心を抑えて見て一石を投じられたのだと気が付くまでは暫く時間を要した。 作者は教職に身を置くものとして一年の終わりと始まりに送る者は無事に去れと感慨に耽り迎える者の準備に取り掛かる。やはり途切れ途切れの心の動きだ。 整理しなければならない書類は家族にも任せられない。 「ゴミ」と謙虚に表現したのは自己の責任感を控えめにしたためと思う。 この句は色褪せるだろうか。作者は来年もこの心境に浸るであろう。 | |||
椎名美知子 2007/02/11-10:46 No.[474] | |||
久保寺さん、何かうまく言い表せないものがあったのですが、的確に言い表してくださり、ありがとうございます。同感です。 これだけ多方面から論議できて、その価値のある句なんてすばらしいですね。 | |||
堀口希望 2007/02/12-00:15 No.[483] | |||
皆さんのいろいろのご意見をお聞きし、大変勉強になりました。しかし、俳句を作者(この場合は、大学教授であり、「山房日記」の作者である谷地先生)から切り離し、一句独立した存在として鑑賞しようとする小生の立場からすれば、評価しにくい句と言わざるを得ないように思います。以前に、菅原さんの意見に賛意を表しつつ、「ゴミ」の片仮名表記に難ありと言いましたが、あらためて再読すると、やはり「ゴミ」に抵抗がありますし、「春立つ」「燃し」「削り」と動詞が三つあることにも抵抗を感じます。もっとすっきりした句にまとめられないのかな、というのが実感です。 (的外れの評でしたら、お許しください。) | |||
菅原宏通 2007/02/12-12:03 No.[488] | |||
堀口さん同様作者と俳句を切り離して観賞すべきものと思います。昔、俳句は第2芸術論であるという論議がありました。作句者を伏せて有名・無名人の俳句を評価させたら無名人の句の方が良かった、俳壇は家元的前近代的で俳句は第2芸術であるという論文でした。参考までに | |||
吉田久子 2007/02/18-16:35 No.[590] | |||
好きな句に碧梧桐の 赤い椿白い椿と落ちにけり があります。厳密に言えば6・7・5と非定型。また「赤い椿白い椿と」は口語的で椿が繰返し、「落ちにけり」は文語体なのでやや離れた感じを受けます。作者の句風も実人生も(勉強不足で)ほとんど知識がありません。それでもというか、それ故にというべきかずっとこの句に惚れ込んでいます。自分なりに考えるにこの18文字が詩の表現力、叙情の普遍性を具えているからではないかと。 この句の感想について。最初「春立つや」に「ゴミを燃し鉛筆削り」がとても新鮮な感じではっとしました。「燃し」が効いていると思います。何かを燃やすのは私にとっては非日常の世界へ通じる行為だからです。ただ一句の姿に共感できるかどうかは、う〜ん、微妙ですね。(きちんと文にできなくてすみません) | |||