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 ■200712_01
 海紅   2007/12/03-15:53  No.[2393]
    もののふの末裔の村大冬日

根本文子   2007/12/06-00:35  No.[2394]
 
    懐かしい吟行句ですね。17文字のなかにあの日見た全ての光景が一瞬にして思い出されます。もののふの末裔の村は、新撰組の近藤勇や土方歳三の生まれ育った村。
純朴で一途な若者の短い生涯が痛ましく感じられました。そのような村を包んで、多摩の横山にかかる満天の大夕焼けの圧倒的な美しさを忘れることができません。
大自然のなかに過ぎて行く人の一生、ふと不易流行という言葉の思い浮かぶ一句です。
 

久保寺勇造   2007/12/06-13:09  No.[2395]
 
     この句から杜甫の春望の一節「国敗れて山河あり」を望め杜子美詩集を常に携えていた芭蕉の漂白の旅のなかの句などを連想いたします。
 歴史が過ぎれば戦に於いての勝者も敗者も風化されますが当時敗者は山奥の狭隘の僻地に住まわざるを得なかったでしょう。遠裔として人々が住んでいます。
 そこに暖かい冬の太陽が照らしている延延とした息遣いを感じます。
 

市川千年   2007/12/13-23:05  No.[2396]
 
    もののふの句読後、蕪村の冬の句をめくると、「宿かせと刀投出す雪吹哉」「蕭条として石に日の入枯野かな」「葱買て枯木の中を帰りけり」が目に留まりました。宿かせと武士が落ちのびた村の枯野に日、その末裔が葱を買って帰る風景・・・
谷地先生の「蕪村における「徒然草」受容の考察」(「江戸人物読本 与謝蕪村」谷地快一編 ぺりかん社 1990年初版より)を今読んでいますが、海虹句分析のための文言がちりばめられているように思いました。長くなりますがあげてみます。先生の作品と先生の蕪村に関する文言が「接近」していると思うので。
「「俳力」すなわち俳諧性とは何か。蕪村の言葉通りにそれが「粉骨」であり「骨を折たる作者の意」であるとするならば、それは心であり精神であって技巧ではない。・・・離俗による「美的想化」の精神である」
「「おもしろき故事を下心に」ふむことが趣向であって、「景気」は主観性を支えるための客観的処理なのである。俳文学とは「景気」によって統御された主観性ということになろうか」
「趣向の工夫がないかぎりは、「景気」もただごととなってしまう」
「蕪村が門弟に説くところは、実景をとらえることの必要性は当然ながら、それ以前に「美的想化」を支える趣向を持てというのである」
「蕪村の創作意識の全体は、趣向を凝らして無意識にという矛盾する言葉の振幅にあるのである。したがって創作意識の中に於て「不用意」とは離俗のための最終的修正と呼ぶこともできるであろう」
「「景気」と実情との融合による句が蕪村自賛のひとつ・・」
もののふの末裔の村大冬日・・景気と実情の融合、美的想化、離俗。そして、作者はこの句の「背後」に確かに存在する。私自身のこれらの言葉に対する認識の浅さはおいておいて、発句の確かな重量感を勉強した思いです。
 

天野さら   2007/12/15-22:27  No.[2397]
 
    難しいことはわかりませんがこの句は新撰組とも平家の落人村とも戦国時代の敗れた一族の村とも取れ、焦点が定まりません。もう少し具体的な言葉を入れたほうが内容がハッキリしますし、インパクトがあるのではないでしょうか。
 

福次郎   2007/12/18-16:48  No.[2399]
 
    お久しぶりです。福次郎です。
この句は吟行句なのですね。
とすると、天野さんのおっしゃるように具体的な地名等を入れるというアイデアは、ドラマチックで良いと思います。
が、この句は吟行という空間を離れても十分に成立する句ではないか……とも感じています。
どこの村とあえて限定しないことで、読み手は「新撰組の〜」という枠から離れ、栄えてもいつかは滅ぶという「歴史そのもの」に思いを馳せることができるのではないかと感じました。
作者が新撰組のことに焦点を当てたのか、それとも何か別のものに感じ入ったのかによって、句の表現は変わってくるのではないかと思います。
それにしても、吟行句は難しいですよね。私も毎回悩まされています。
 

天野さら   2007/12/19-22:08  No.[2400]
 
    俳句は全部説明しないで一部を詠んで、あとは読み手に託すといわれます。この句はそういう句かもしれません。福次郎さんの言われるようにあえてはっきりと地名などを入れないほうが広がりがあるといえます。そういう気持ちで作られたのでしょう。また、俳句は自然のある一場面を切とるものとも言われます。この句は静かな景色を詠んでいますが奥にもう少し動きが感じられればばと思います。芭蕉の『夏草や兵共がゆめの跡」に思いをはせます。この句と内容に通じるものを感じました。芭蕉の句の『夏草」「兵」には勢いを、「ゆめの跡」からはかって勇ましく戦った兵士と破れたあとの寂寥、無常などが感じられます。「末裔の村」も「大冬日」にも動きが感じられません。
 



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