■200710_01 海紅 2007/10/01-15:10 No.[2228] |
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足音に寄り来る鯉や秋深し | |||
久保寺勇造
2007/10/05-01:13 No.[2232]
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子供のころ池の際でポンポンと手を叩き鯉を呼び寄せたことがあります。別に鯉の習性を知っている訳ではありませんが大人がしているのを真似ただけです。 訪れる人も少ない池のほとり、作者は前にも来たことがあるらしく「どうしている」と覘いたことでしょう。 どうやら寒くなり鯉の動きも鈍くなりました。 日本列島たてに長く秋深しは季感としていま丁度というところで詠んだ句だと思います。 | |||
市川千年 2007/10/06-22:13 No.[2236] | |||
「秋ふかし隣はなにをする人ぞ」(元禄7年)。「芭蕉句集」岩波文庫ではこの句の後に、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」「清滝や波にちり込青松葉」の2句がきます。秋深し鯉の寄り来る足の音。この足音は蛙とびこむ水の音が淵源にあるとみました。インターネット24時間打ち込めるようになった深夜の妄想かもしれませんので、失礼いたしました。 | |||
松村 實 2007/10/09-12:09 No.[2238] | |||
晩秋の庭園の静けさを感じました。千年さんのコメントを読んでいて芭蕉の「秋近き心の寄るや四畳半」を思い出しました。秋近しの季題であれば「足音に寄り来る犬や秋近し」になるのかな等考えました。犬でなく鯉である所により深い寂しさ、孤独感があるように思えました。 | |||
久保寺勇造 2007/10/10-02:39 No.[2239] | |||
少し立ち止まって下さい。 この句には何かトリックがありもうひとつの句を詠んでいませんか。そうです。掛詞です。 「女の足音がきこえてきて男が歩み寄れば春に芽生えた恋が秋に終わろうとしている」 鯉=恋 秋=飽 もちろん作者は公園のベンチに腰掛けてでも男女の表情で読み取ったことでしょう。 巧みの細工が織り込まれています。 ひとり合点としても楽しませて頂きました。 | |||
堀口 希望 2007/10/12-11:39 No.[2242] | |||
作者が(鯉ー鯉)(秋ー飽き)を掛詞として意識していたかどうかは分かりませんが、久保寺さんの着眼はすばらしいと思います。現代俳句では掛詞・枕詞・本歌取りのような和歌的な技法を拒否しているようですが、どんな技法であり拒否する必要はないでしょう。私はもっと積極的に使ってみたいと考えています。 皆さんののお考えをお聞きできたらと思います。 | |||
市川千年 2007/10/14-21:06 No.[2262] | |||
最近読んだ「古典詩歌入門」鈴木健一(岩波書店)に、「<自然>と<人間>の多義的な関わりを掛詞・序詞や見立てといった技法を中心に考えてみることにしたい。 <人間>について探求しようとする場合、基本的には<人間>以外のなにかを引き合いに出しながら考えていくことが必要になると思う。・・・・<人間>と同様に生命を持ち、それでいて<人間>とは異なったリズムを有している、絶妙なバランスを保てる存在としての<自然>はきわめて貴重な存在なのである」という冒頭の文章を思い出しました。 掛詞、枕詞等々は、自然と隔離された孤立無援のサイボーグ人間(言い過ぎか)にならないための人間の知恵なのかもしれません。高野素十の花鳥諷詠・客観写生もひょっとしたら、こうした日本人(日本語)の知恵の反転、「掛詞、縁語、枕詞等」を近代において昇華する作品群だったのではないか、素十が俳句に対して「宗教」といったことも、このあたりにあるのではないか、などと思ってしまいました。かなり乱暴な意見だったかもしれません。 | |||