■200705_02 海紅 2007/05/16-13:39 No.[1675] |
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恋は今生まれしばかり筍も | |||
久保寺勇造
2007/05/16-21:47 No.[1676]
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掘り起こしたばかりの筍の香りには盛装で新鮮なものが漂います。作者の定型を壊しつつ定型を有するこのバランスが生まれたばかりの恋と言うものを意図も簡単に筍に結び付けました。 読み手にお好きのようにと句意を渡されました。 ここはやはり平凡に清廉にて真直ぐ大きく育つことを見守ります。 | |||
市川千年 2007/05/17-16:06 No.[1679] | |||
筍は、どんどん朔太郎の詩のごとく竹になっていく。筍を掘るのは少し力が要りますが、食用にできない中途半端に伸びた筍から竹へと脱皮しているものは、山の畑のじゃまにならないように、鉈や鋸であっけなく切り落とされる。鑑賞になっていませんが、この恋は幼少年期の初恋のようなものではないでしょうか。なんという中年(私)のロマンティシズム。 先生がブログで、「「切れ」とは読者の介在を許す場所」「取り合わせの句とは配合された二者と読者とのトライアングルで成立」と書かれていましたが、句に対しての自在な鑑賞の窓を開ける言葉として、「待ってました!」という感じです。 | |||
天野 さら 2007/05/19-15:13 No.[1681] | |||
筍と恋の初々しさがここでは調和しています。おそるおそるこの世に顔をのぞかせた筍は恋を感じ始めた頃の気持ちに通じます。市川さんの言われるように初恋と考えます。これからどんな関係に発展していくのでしょうか。期待と不安で胸が張り裂けそうです。ときめきの心は新鮮で柔らかい、出たばかりの筍も柔らかくておいしい、だんだんなれてくると初めのころの心は消えてゆき、もとには帰れません。何事も始まりはいつも新鮮です。筍と恋の取り合わせはとても珍しいとりあわせで、俳句が新鮮に感じられます。新しい境地を求められていらっしゃるのではないでしょうか。誰のものでもないゆるぎないご自分の俳句を、と感じました。俳句も慣れてくると上手く作ろうと邪念が働きますがそれがもう初々しい心ではないのだと思います。いつも心を柔らかく保っていることは至難の業です。 | |||
市川千年 2007/05/21-12:32 No.[1684] | |||
恋と筍の取り合わせにまずびっくり、どっきりして、前回、鑑賞以前の駄文を書いてしまいました。写生(リアリズム)を踏まえた上で、なおロマン(対象に対する暖かい気持ち)を感じる句。さらさんのおっしゃる「心を柔らかく保つ」姿勢が味わいとなって出たような句だと思いました。 本意、本情あるいは植物、動物等の生命を踏まえた上で鑑賞することが、作品と読者との真の交流につながる。などとも思いました。 | |||
福次郎 2007/05/23-18:21 No.[1688] | |||
ご無沙汰しております。 一読して、どきりとしました。恋の句をさらりと、しかもみずみずしく詠むのは、なかなかできることではないなぁと感じます。 私はこれから猛スピードで天へ伸びていくであろう未来の若竹までも重ね合わせて読んでしまったのですが、みなさんの書き込みを見て、みずみずしさだけでなく、筍の内包する危うさにも気づかされました。 まだまだ季語の勉強が足りないと感じている今日この頃です。 | |||
研究室の海紅 2007/05/23-19:06 No.[1689] | |||
福次郎君(?)の書き込み嬉し。この句、このあたりが潮時か。また次の句への御批判、よろしく。 | |||