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 海紅   2007/03/22-10:25  No.[1431]
    ものの芽の風にとかれて明るしや

千葉 ちちろ   2007/03/24-08:43  No.[1433]
 
    「ものの芽」という言葉をはじめて知りました。いい季題ですね。歳時記によれば「木の芽」という季題が別にあるので区別して普通は草花や野菜の芽を指していうとのこと。「草の芽」とも区別して、種々雑多な植物の芽をまとめて呼ぶ場合に使われるとの事。
ここでの「とかれて」は、固く閉じていた草の芽が春の風にゆるめほぐされていく状態を詠んだものと解釈し「解かれて」と判断しました。
「明るしや」は形容詞ク活用の終止形に詠嘆の「や」が付いたもので、春を思わせる南の風に解きほぐされるように、下萌えの草花の芽が一段と萌え出しはじめ色鮮やかで美しさを感じさせるな〜、という意味でしょうか。素敵な句ですね〜。特に「風にとかれて」という言い方がいいですね〜。
 

堀口希望   2007/03/24-17:38  No.[1434]
 
    「明るしや」をどう考えるべきか数日迷いましたが、やはり言い過ぎではないでしょうか。いわゆる「答えを出してしまっている」のではないかと思います。一方で小生の鑑賞には誤りがあるのではないかとも思います。もし誤りがありましたら、どうぞ教えてください。
 

千葉 ちちろ   2007/03/26-09:05  No.[1436]
 
    希望さんに質問です。
「明るしや」について「言い過ぎではないか」、「答を出してしまっているのではないか」とのことですが、どういうことなのか教えていただけませんか。また、それならどのようなことになるのでしょうか。
私は単純にものの芽が風に解かれて春を感じる明るさになったなあ〜、と解釈したのですが・・・。
 

天野さら   2007/03/26-22:53  No.[1437]
 
    「ものの芽][風」『明るし」どの語も実体がつかみにくくそのため強さや重み、インパクトが感じられません、理解できる何かがあれば叉違う響きを持つかと思います。このなかで「ものの芽」が柳や柿の芽のように何かの木の名前があれば落ちつきます。結句の「あかるしや」ですがちちろさんの言われるように「あかるいなー」の意味だと思いますが春はすでに明るい季節なので改めて言わなくてもいいように思います。堀口さんの「いいすぎ」に同意します。「風にとかれて風と和す」
 

千葉 ちちろ   2007/03/27-09:05  No.[1439]
 
    さらさん、ありがとうございます。なるほど、春はすでに冬が終わり、明るい季節の到来を意味するので改めて「明るし」といわなくともいいという意味ですね。わかりやすいご説明で「言い過ぎ」「答を出している」ということがよく理解でき、いわれてみればそうかなって思います。俳句は本当に難しいものですね。
 

久保寺勇造   2007/03/27-21:48  No.[1441]
 
     風に梳かれての程度ですから名もなき草花の多くは控えめに「明るしや」で愛らしく目に映ります。
 小生には季を待ち望んでいた心が感じられます。
 

千葉 ちちろ   2007/03/28-07:01  No.[1442]
 
    「明るしや」については久保寺さんのおっしゃるように色々な鑑賞、解釈があろうかと思います。
ただ、私の「解かれて」に対して敢えて「梳かれて」とされておりますが、これには異議ありです。「梳く」は「乱れもつれたものを分けはなして整える」「くしけずる」の意ですから、わからないわけではありませんが少し意味が違っているように思います。これも鑑賞、解釈の違いかもしれませんが・・・。
 

久保寺勇造   2007/03/28-08:47  No.[1443]
 
    作者が平仮名で表した以上は読者は自由に解釈して構わないと思います。小生は「梳かれて」にしました。
 それもですが上句の「の」の三文字に春を待ち望んでいた心を感じているのですが如何でしょうか。
 いやあ、この技法とてもとても平身低頭します。
 

久保寺勇造   2007/03/28-10:51  No.[1444]
 
     ものの順序と申しますとまたご指摘を受けるかも知れませんが季節的にも解かれるのが上位でしたね。
小生は梳かれて通気が良くなり草花が咲くとまでの思い込みではありませんが「明るしや」に気を取られ過ぎました。参考になりました。
 

千葉 ちちろ   2007/03/28-17:25  No.[1445]
 
    久保寺さん、自説を曲げての早速の同意。ありがとうございます。
「の」の三文字についてはおっしゃるとおりかもしれませんね。「物の芽」を「ものの芽」としたのは、柔らかい印象を与えます。そのあとの「の」は主格の格助詞「が」を意味する「の」ですが、全体的に春らしい優しさを表現していますね。
 

久保寺勇造   2007/03/30-09:40  No.[1446]
 
    自然の営みを「の」の助詞により時間的な空間を構築しスローモーション装置でしか見ることが出来ない推移を確実に捉えていると思います。
そして俳句の文字を書く見る楽しさを「の」三文字に与えられ、ものの芽の季語を初めて知ることが出来ました。
 作品を鑑賞する上で作者の生い立ちや資料、文献による理解は二義的な問題があるかもし知れませんがこのサイトから入門している小生ごときには、また教えを受けたという気持ちも持ち合わせています。
 

久保寺勇造   2007/03/30-17:31  No.[1447]
 
    「明るさや」につての小生の句意感想は弱すぎます。
 あの程度の苦し紛れの一行は言い訳にすぎませんでした。生物学者でもあられた昭和天皇が「名もない草花と言うものはない」とおっしゃられたのを思い出します。
ここは諸々の芽から咲く草花として専門用語はご勘弁をお願いします。
 「風にとかれて」咲く花は陽光を受けない花自生の明るさしかなく作者は美しさを無造作に言い換えたのでしょうか。この意表を突く表現は読み手に新鮮さを与え写実の原則に従い何故かまわりの景色に調和していると小生は思います。

 

久保寺勇造   2007/03/31-10:51  No.[1448]
 
    「明るしや」は作者自身が自分の感情に陶酔して夢中になって詠んだものでしょうか。それであるならば(明るすぎる)の鑑賞には作者が「それもある。そう感じてくれたか」とこれもまた我が意を得てくれたことに納得するものがあるでしょう。作者が別の観察者としての描写であるとは読者には断言できないものがあります。
 

久保寺勇造   2007/03/31-10:52  No.[1449]
 
    早いもので海紅句抄も一年経ちました。
 お陰様にて四季の移り変わりにも追いついていけましたし歳時記に親しむことも習いました。
 海紅先生、内藤さん有難うございました。
 

椎名美知子   2007/03/31-20:18  No.[1451]
 
     久保寺さんがお書きになっておられるように、先生の句を一年を通して読んでみたとき、そこに流れる豊かな抒情に驚き、引き込まれました。四季の流れを抒情豊かな音楽のように、一つの世界を創り出していらっしゃる、これはまぎれもなく谷地先生の世界だと思いました。
 一年を通して編み上げていく(この表現でいいのでしょうか)ということはすごいことだとも思いました。楽しみな欄で、真剣に読ませていただき勉強させていただきました。これからも楽しみにしています。

 

天野さら   2007/04/01-21:08  No.[1453]
 
    春の季節はぼんやり霞がかかったような季節、まだ眠りから覚めたばかりの柔らかさ、春といえないあいまいな春をあえて『ものの芽」と表現したとしたとしたら、前に書き込んだはっきりと何かの芽と詠んだほうがいいとした私の考えは浅い読みだったかもしれません。
 

市川千年   2007/04/06-12:43  No.[1503]
 
    「甘草の芽のとびとびのひと並び」「甘草の葉に一すぢの黄色かな」を想起しました。ものの芽が風を媒介としてその場に明らかな存在となる春のよろこび。
 



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