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大東亜戦争の終幕 |
太平洋戦争期に海外進出の口実に用いられた八紘一宇という思想、その記念碑のある高台から私達は太鼓に合わせてグランドへ出る。分列行進の始まりである。号令台の上にいる校長先生が大隊長で、両側の歩哨の所から「かしら右」と号令がかかる。軍国主義教育であった。
昭和一六年に大東亜戦争開戦。その八ヶ月前、尋常小学校は国民学校と改名していた。私はその一期生である。昭和一七年には京都府立綾部高等女学校へ入学したが、母が作ってくれたセーラー服を着たのは入学式ぐらいで、ほとんど毎日のようにモンペに作業服を着て、夏から秋にかけては蛭の吸いつく汁田で田植え・田の草取り・稲刈・稲こきをし、冬には吹雪の山に入って木樵の作業にも携わった。
こうして三年生になったのだが、養蚕業の盛んな綾部には「郡是製絲株式会社」があって、一一月一日からは学徒動員という指令に従い、その会社の女工さんの寮に入れられて計器作りをした。引率は東京高等師範学校を繰り上げ卒業して着任された数学の田中弘先生であった。
昭和二〇年八月一五日はお盆で自宅に居たが、ラジオの前で父が「戦争は終わった。日本は負けた」とつぶやく。父はフランス語の通訳で仏印へ行っていたので、まれに勝利に酔うことがあっても、この戦争は長くは続かないとわかっていたようだ。
翌日に会社に出ると、「明日は硯・筆・半紙を持参せよ」という指示があり、一七日には会社の講堂に集められて、天皇の敗戦の詔勅を謹写した。まだ洗脳という言葉はなかったと思うが、何の疑いも抱かず「負けて申しわけない」と書いたのだから、洗脳されていたとしか言いようがない。「佳子謹写」と書いた半紙は今も私の手許にある。
九月に二学期が始まっても防空壕の埋め戻しや農作業ばかりで、授業は晩秋になってやっと再開した。四年生になっていた私達に、現代のような進路指導はなかった。私は担任の先生への恩返しのつもりで数学を専門にすることにして、一軒だけあった本屋へ行ったが、書棚は「江田島」という海軍兵学校の本ばかりで、数学の本なんて一冊もない。それで叔母に代数と幾何の本を貰って自学自習。授業で因数分解も二次方程式の根の公式も習った覚えはないが、コツコツとやった。その努力は報われて、私は昭和二一年に念願の奈良女子高等師範学校の数学科に入学した。
そこで、のちに文化勲章を受章された世界的数学者の岡潔博士の教えを受ける光栄に浴したが、女高師卒業の際には希望していた女学校には就職できず、私の赴任先は普通科・商業科・工業科が合併して二千人近い生徒を抱える新制のマンモス校、京都市立の高等学校であった。
しかし、軍国少女であった私は「撃ちてし止まん」の心意気で頑張った。でも男子生徒からみれば新任の女性教師である私なんぞ、女の幼稚園児がピーチクパーチクル言っているようにしか見えなかったかもしれない。
当時の修学旅行は夜行列車で行く。私は引率教員として阿蘇山をめざす。上りはスイッチバックする汽車、下りはバスであったが、生徒は元気一杯であった。私たちの前を走る枯れ草を積んだ車の牧歌的な姿が今も忘れられない。
こんな青春時代を送った私であるがゆえに、定年退職後は大学院を志した。そして、東洋大学へ。
東洋大学の卒業証書を手にした時が、私の「大東亜戦争の終わりー」である。
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