拝啓、青嵐の清々しい季節もほんの束の間、徐々に日差しが夏の気配を帯びて参りました。
このたびは初句集『雁のやうに』をお送り戴き有難うございました。
また、この度の句集出版おめでとうございます。こころよりお祝いを申し上げます。
さて、『雁のやうに』、じっくりと鑑賞させていただきました。
全一四三句、一句一句を読み進めると、さすがに根本さんの輪郭のようなものが見えてくるように感じました。句集の「あとがき」に、「子供時代の原体験」と記されていますが、その原体験とは子供時代に見た、舅姑を一心に介護する母親の想いでしょうか、また故郷の空をゆく雁行への追慕でしょうか。いずれにしろ、そのとき「めぐる季節の中で」「繰り返」される「世代交代」という普遍なものを、しっかりと把握されていたのでしょうね。そして根本さんの類まれなる風流の感性もそのとき同時に育まれていたのでしょうね。
時はめぐり、その原体験は「あとがき」に書かれているように、やがて当然のように根本さんを「雁」へと駆り立てたのですね。
まるで雁のように横浜から広島、そして宮城を往復した十二年でした。
妻としてご主人の単身赴任地・広島県へ、そして子として両親の介護に宮城県へと。そんな夢中で何かをしているときの、あの豊かで密度の濃い時間、そう、まさに時が缶詰になったようなものを、この句集に見ることが出来ます。
そこには男では辿りつけない、大地のような女性特有の感性と息づかいがあります。
着いてすぐ雪掻く遠距離介護かな
梨の花鍵あけて入る父母の家
こう言っては失礼になりますが、女流俳人の多くは「俳句は日記」の境地から日常を、また過去には「台所俳句」と呼ばれるジャンルもありましたが、日々の生活を詠われることが多かったですよね。しかし『雁のやうに』は、このような女流俳人の世界を、はるかに超える大きなスケール感がありますね。それは単に横浜から広島や宮城を往復した時に詠まれた作品が醸しだす距離的なものだけではないようです。どうやら、それは根本さんが持っている人間的スケール感が、もたらしているようですね。
すれ違ふ桜前線終列車
花ひらく力寄せ来る海辺かな
レイテ沖すみれの束と散骨す
私の知る女流作家の句集は、そこそこ健康で、どうかすると家事や雑事に流されそうだけど、少しでも煌めきながら生きたい。そして時々心から滴り落ちる生活の残像や、体温からほとばしるような言葉、そういったものを詠みこんでみたいと、そういった句集が多いように思います。もちろん、それ自体は素晴らしいものです。しかし『雁のやうに』には、そう言った句が当然組み込まれているのですが、全体の趣がそれらの句集とは何か少し違うように思うのです。
故郷を離れてから、しばらく振り返ることのなかった根本さんの長い「来し方」。そこへ突然訪れた、ご主人の単身赴任と、郷里のご両親の介護。気がつけば、恰も子供のときに見た「雁のように」広島と郷里を往復している自分。その雁のような生活は、あっと言う間に十二年が過ぎる。やがて訪れる両親との離別と、ご主人の定年。根本さんは「あとがき」に、
西にも東にも私を待っている人は居なくなりましたが、十二年間の列島東西の移動は、
日本の美しい自然に二重に包まれる、私自身にとっての旅の時間でもあったと、
今なつかしく思い返しております。
と述べられています。
しかし根本さんの旅は形を変え、どうやら、また続いているようですね。
雁の空地に深閑としてひとり
冬の日の長女にかはりなき月日
卒業と思ひてもなほ慰まず
それは根本さんが、「子供時代の原体験に突き動かされる」ものを、いつも胸に宿しているからでしょう。
そう、芭蕉の旅のように・・・・・・
晩学に紫陽花の咲く道が来る
話は変わりますが単一結社にいると、技法的な理屈が優先し、詠う作者の背景にあるもの(句作動機、発見とか感動)の鑑賞が、つい疎かになることは、いつも感じるところです。
その点、この句集は、詠わねばならない人がいて、そしてなによりも詠いたいと思う自分がいる。そして「旅」という時空があり、介護や定年という(ちょっとオーバーな言い方になりますが)普遍的なテーマが作品から読み取ることが出来ます。
このあたりが、前述した「何か少し違う趣」の源泉でしょうか。
それでは、小生が心に残った(というより無迅好み)句をあげさせていただきます。
【 波の舞台 平成九年まで 】
すれ違ふ桜前線終列車
花柄の傘開きやる大試験
連翹の角まがり来る良き知らせ
目の癒えし母の待ちゐる良夜かな
今生の銀杏拾ひと言ひながら
【 吹雪く駅 平成十年〜十一年 】
「生き克つ」と卆寿の父へくる賀状
息つめて白木蓮をふり返る
萩よりも小さな母となりてをり
裁縫室にころがりたくて銀杏の実
冬鳥の思ひのままの画布の空
着いてすぐ雪掻く遠距離介護かな
しやぼん玉初めて席をゆずられて
新郎の母鷺草をみてをりぬ
長旅の予感の萩を刈つてをり
【 音符 平成十二年〜十三年 】
花の芽をゆする光の中にをり
花ひらく力『寄せ来る海辺かな
十薬の草ゆれ母のゐる安堵
夏服の子が来てマヤの目と思ふ
被爆せし黐の木にある茂りかな
潜り戸の翁生家の土間の冷え
埋み火の消えてをりたる自在鍵
【 詩嚢 平成十四年〜十五年 】
旅の空卒業したきこと数多
真つ青な火を包みをり今年竹
ざばと落つ新樹の雨の硬さかな
礼を言ふ父となりたる花野かな
冬の日の長女にかはりなき月日
幾つもの川越えてゆく花の旅
晩学に紫陽花の咲く道が来る
補助輪のとれひまはりの顔でくる
病む母の夜寒の息を思ふかな
雪しまき口のかたちを読む会話
ちやんちやんこあの世に小指の近さと言ふ
【 レイテ沖 平成十六年〜十七年 】
父の死
父危篤瞳に詰めこみて行く桜
命日となりたる父の桜かな
レイテ戦は語らず春の別れかな
十八のつもりの母と早春賦
菜のいのち菜虫のいのち迷ひつつ
卒業と思ひてもなほ慰まず
レイテ沖すみれの束と散骨す
柳絮とぶ南海に父弔ひて
薔薇の芽と一緒に育つ薔薇の棘
夏草や約束の日も持ちて逝き
凌霄花還らぬ人が揺らしをり
満潮の闇となりたる虫送り
刀豆の蔓の疲れを思ひをり
【 雪の除夜 平成十八年〜二十年 】
グループホームの母の許へと旅はじめ
餅花や「どなたですか」と問ふ母と
思ひ出の端切れ吊してある雛
しもつけ草金平糖のごとく零れ
棒稲架の蝦夷益荒男立ち上がる
カタカナの日本人墓地鳥渡る
雁の空地に深閑としてひとり
通りまで凍つてをりし武家屋敷
冬深みはらからのふと重いとき
胸ひらく鍵もらひけり春の風
泉岳寺
梅真白どの卒塔婆にも刃の字
信号に地名を残し木戸の春
春風にめくられている記憶かな
夏帽子きりり騎馬戦女子大将
椎の葉の沸き立つ幻住庵址かな
弁護士の方言やさしツバメッコ
新品の下着の嵩や秋彼岸
母を拭くに父の下着を切る夜長
手習いの母の鉄筆冬座敷
梨の花鍵あけて入る父母の家
結社を超えて句集を戴きましたので、敢えて幾つかの点で「槇」ではどのように議論されているのかな、と気付いた点を一、二点上げさせていただきます。
・ 「〜て」表記について。
・ 「〜のやう(な/に)」表記について。
当方では右の表記については、次のような理由から少し疎まれているようです。
・ 「〜て」表記 → どうしても因果関係が入りがち、また句が理屈に流れやすい。
・ 「〜のやう(な/に)」 → 主観が入った「見立て」になりがち。
勿論、使ってはいけない訳ではなく作品次第でありますが、右の理由から敬遠されている表記です。
いつか安居さん、希望さんなどの他の結社の方と、このような議論ができればいいなと思っています。
先ずは、御礼まで。
伊藤無迅 拝
平成二十一年五月吉日