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随筆カフェ |
◆ 「ひばり」にはなれなかったけれど
(パート2) |
大江月子 |
2007年、昨年の11月末近く、晴れ渡った満月の夜に、私がシニア・ミドルクラス生として一年半通ったある俳優養成所の卒業公演が、浅草のK劇場でジュニアクラスも取り混ぜて華やかに行われました。私は川口松太郎原作の『しぐれ酒』でおせんという女の役を一場面、無事演じ終えました。その日のことを知っていた俳文学研究会の友人数人が見物にきてくれていました。次の日の「芭蕉会議」の書き込みにはそれぞれから感想に添えて、次のような句を贈られていました。
中天に卒業祝ふ望の月 喜美子
名月も役者に負ける時もあり 勇造
楽屋に開いて小さき天窓
そして翌月の12月、白山甫水会館で行われた句会で、一連の話しを耳にしておられた海紅先生が
公演を終へたる月子十二月 海紅
の句を下さったのです。
2008年、今年の師走の句会は「大山」吟行で、「獅子山荘」という豆腐料理の宿に一泊という企画で行われました。紅葉美しい大山へ詣でたのち、宿での句会、食事、二次会と進みました。この日の参加者は海紅先生を中心に18名です。
宴もたけなわとなった頃、私は皆の前に踊りを披露したいと願い出ました。
近頃の私は、人との集まりの場があると、曲を入れた小さなカセットテープと気に入りの扇一本、そして白足袋を鞄に忍ばせて行くようになっています。一人でも多くの人に、私は私の日本舞踊を見てもらいたいと今思っています。それは漠然とした舞台のような大勢の観客に向かってではなく、私が踊っていたいと思う気持ちが伝わるような場所で踊りたいというのが願いです。
夏、父親の二十三回忌の席で踊りました。一番見せたかった母は九十五歳で健在ですが、遠いものを見るような目をして感想は述べませんでした。けれどその場に集った、ことに若い姪や甥の優しいまなざしや、その小さな子どもたちの驚く顔や暫くの静寂は私を満足させました。秋、幼なじみ数人との再会の宿の夜に、近所の仲間との温泉宿で私はさりげなくその時間をつくって友人達を煙に巻くことに成功しました。
さて今回は俳句の会という目的のある会でしたので、踊るということには少し躊躇もありましたが「公演を終へたる月子十二月」の句を下さった海紅先生に感謝の意を込めて、また奥山さんの尺八が、宴の間もとぎれることなく流れていましたので、その音に勇気づけられて踊る決心をしました。宿の浴衣に袢纏を羽織って私は常磐津『山姥』を踊りました。これは私が五十年前に名取り試験の課題曲として仕上げたものを、この一年で復習えてきたものでした。
五十年も前の昔、私は日本舞踊のある流派の名前を貰ってから、しばらくして結婚をしました。以後私の踊り名は箪笥の底深く封印されていましたが、忘れることはありませんでした。
人生の何かが一段落して、十年ほど前に一度踊りの再開を考えました。暮らしの環境や事情にも、無理をしなければ叶わないという世界との再会ということはわかっていましたが、そのとき再開を果たせなかった一番の理由は、私が教えを請いたいと思う先生が見つからなかったということでした。
私はそれまでもそうしてきたように、また紙と鉛筆の世界に何かを求めて東洋大学の通信課程に入学をし、卒業しました。今日ここにこうしてあって「芭蕉会議」掲示板へ書き込みをしているのも思えば有り難い不思議なご縁です。大学入学から今年で丁度十年がたちました。しかしこの十年はことに私にとっては何かへ向かうための過程にすぎなかったのではと思えるのです。少しキザに言ってしまえば、この十年があったから私は今踊りを踊っているのだと思っています。
俳優養成所のレッスンには日本舞踊もあります。初心の人に混じってのレッスンでしたが、次第に私の関心は日舞の再開へ向かっていきました。卒業を果たしたらそれを実行しようと思いました。
私は稽古用の浴衣を新調することにしました。
踊りの流派では何年かに一度、お揃いの浴衣を誂えるようにとの案内が、お抱えの呉服屋を通して送られてきます。代金に送料を添えて申し込み、五十年ぶりの新しい浴衣の送られてくるのを待ちました。
たまたま偶然に、その時間家にいたというある朝のこと、電話がかかってきました。その電話が浴衣を扱っている呉服屋のNさんという人からのもので「近くに届け物のついでがあるので」私の浴衣を届けてくれるというのだという電話だとがわかるまでしばらく時間がかかりました。流派を離れてからも久しい私のことを、名取りの名前で先生と呼ぶNさんは、江戸時代から続く日本橋の呉服屋さんです。信じられないことがやってくる予感がしました。Nさんが家へやってくるまでの30分ほどの間に私の第六感はこれで私の先生は見つかることを直感したのでした。Nさんは四十がらみの役者のようないい男の営業マンでした。私はNさんを家に請じ入れて踊りの話しをしました。Nさんは若いのに歌舞伎のこと、日本舞踊のこと、それらの系図や人物、人脈のことその周りのこと、何でも知っていて、すぐに私の再開にむける思いさえもくみとり、私にぴったりの先生を鎌倉に紹介すると言って、浴衣を置いて帰っていったのです。
翌日鎌倉のその人から電話があり対面を許されました。先生は私の姉弟子くらいのお歳とお見受けしましたが、私の習った先生も、鎌倉の先生の師であった家元ももう皆亡くなって、正当な流派の芸を継承する人が少なくなっていく中にあって、ずっと現役を通し、かくしゃくと美しい人でした。今も流派の重鎮ですが踊ることの他を好まれず、一線から遠ざかっておられ、そこのところがNさんが私の思いを理解してくれた一つでもあろうと思います。
卒業公演が終わって入門を許された一年前、稽古場の舞台で初めて先生の横に立ったとき、こんなにうれしい思いをしたことが今まであっただろうかと思いました。私が望んで初めに『山姥』を復習えて貰いました。曲に合わせて先生の横で踊る私の身体からは、五十年前が昨日のことのように『山姥』の振りがするすると導きだされてきたのです。
そして先生と仰ぐことになった人の踊りは見事で、私は五十年前に学び残したことを、これから改めて学んでいけるだろうということを確かにかみしめて今を迎えています。
こうして不思議なご縁で恵まれた先生と私の縁ではありますが、これから先そんなに長いものではないとも思っています。
でももし神様とか仏様とかがあるのだとすれば、送ってくるはずだった浴衣をたまたま届けて来た呉服屋のNさんは私の晩年に現れた神様か仏様だったと思わずにはいられないのです。
「大山」吟行の夜に『山姥』を踊る幸せを得た私は、翌朝に訪れた「日向薬師」で一句思い出になる句を詠むことができました。
南無薬師踊り供へん寒雀 月子
いまさら次の夢を語る年月など無いのはわかっているのですが、今私は、旅の一座に加わって、座員の身の回りのことなどさせてもらいながら、一幕だけ踊りを踊らせてもらって、日本中を巡ってみたいという妄想にふけっているところです。
この次は旅の空から書き込ませて頂いていたりして。なんて。
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