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私の好きな私の一句 ― 会員紹介にかえて ―

◆ 「ひばり」にはなれなかったけれど 大江月子

雪女郎我の内なる白き息  ひさこ

  東洋大学国文科(通信課程)の卒業を前に、谷地先生の「俳文学研究会」に入れていただいて、二○○六年十二月で三年を迎えます。これが私の俳句歴です。この句は、初めての投句(「鳩の会」13号の兼題「雪女郎」)で、谷地先生から「雪女の性、すなわち我等の心の中に棲むという。むべなるかな。季重ねを心配するむきもあろうが捨て難し」というような評をいただいた句で、自分でいうのもなんですが、私自身をよく捉えているともいえるこの句を気に入っていて、私の初めの一句に決めています。
この秋「芭蕉会議」の「先人の句に学ぶ」で、芭蕉の句「名月や門に指しくる潮頭」が出た時、この句の背景を探しに、夜の芭蕉庵近くの隅田川河畔へでかけて行きました。私は幸運に恵まれて、そこで満月とあふれくる潮の景色に出会いました。その興奮さめやらぬまま、幾日かを過ごすうち「これを機にもっと俳句に近づいてみよう」と思いました。そして、その決心を誓って、「ひさこ」から「月子」になって、それを俳号にしようと思いつきました。
この世に生まれて七十年近く、雪女郎もずいぶん年老いたものです。でもまだ少し内なる白き息に、こころ囚われてみよう、ルナティックに生きてみようと…。うーん、雪女郎と月子だけでは、ちょっとだめですね。
自己紹介です。物心ついたとき、瀬戸内の小さな街にいた私は、そこで美空ひばりの映画「悲しき口笛」を見ました。そのとき、私は「ひばり」になろうと思いました。そして東京にあこがれました。父親の反対を押しきって、小さいときから日本舞踊を習って、名取りになりました。そのときすでに、私には何の才能もないことを悟っていましたが、そのころ私のそばに、東京へ出るという男が現れて、私は東京へ出られると思って男に従いました。そしてとうとう、その男の子どもを四人産みました。
長男が中学に入って、次女が高校を卒業するまでの十五年間、私は毎日五人の(夫のも入っています)お弁当を作りました。「ひばり」になろうと思った気持ちが変わったわけではありませんでした。私と違う、何か他のものになりたいと思い続けていたように思います。忙しかったので、私は詩を書きました。
最初の詩集は『いつかひばりになって』です。『少し遠くへ行く電車』『瀾滄江の通り雨』『アート』「相宿』の五冊の詩集があります。子どもがみんな出ていって…。大学というところになら何か見つかるかも知れないと思って東洋大学へご縁ができました。結局あまりなにも見つけることができなかったのですが、でも生涯の行き所と願っている「俳文学研究会」と出会い「芭蕉会議」に入りました。…それだけではまだ何か思考が静かすぎるような気がしていたところ、ある俳優養成所のミドル・シニアクラス募集の新聞広告を偶然目にしたのです。応募して、オーディションを受け、今そこに通っています。「ひばり」にはなれなかったけれど、年月と文学に遊んだ果ての演劇には、どこか到達感があって、おまけに東京にいることができてよかった、これで人生にあきらめがつけられるというものだと考えています。少しだけうち明けてしてしまいましたが、人生には書ききれないことがいっぱいです。この先、まだ何かがあるでしょうか。しかしとりあえず…。

   風狂を生きると誓う十三夜 月子

写真提供:高橋巧 氏


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